鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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13)の女性像は身長が低く,前期のややぎごちなさを思わせる。この点からみると,陽は国際的大都会になった。唐周辺の文化,ことに西域からインド,ベルシアなどの西方美術の衝撃的な流入により,唐の芸術はいよいよ陪の形式から脱出し,より生彩がある独自の造形様式となった。従って,唐壁画墓に描かれる仕女像も,陪のぎこちない稚拙さから,次第に写実性を見せるようになった。仕女の顔はやや丸みを帯び,眉と目の距離が広がる傾向がある。眉は数条の線で太さと毛筋を表しており,鼻・口とも前期より大きくなり,立体感がより強くなる。また,様々な外来文化の影響の下で,遊牧民の血統を持つ唐の女性達の生活様式は以前と異なり,より自由奔放になり,男性と同じように騎馬したり,射撃したり,遊んだりするようになった。よって,壁画墓に現れる女性像も,前期よりかなり背が高くなり,表情も仕種もはつらつとして生動感にあふれでいる。風俗の面では,彼女たちはファッションに敏感で,新奇な服と化粧も積極的に試していた。前期の縞文様の棺はこの時期に大流行するに亙った。新しい髪型は沢山出現し,その中でも,面長に等しいほど高さの警や西域風の椎警が最も流行していた。この時期の女性像には,男性の服を着るものがよくみられ,これは前例がない。唐代女性の男装というのは,普通は楼頭,袖,革帯,靴,侃飾からなる。これはもと宮廷の女官の特徴として存し(注11),この時期に至ると,社会全般の開放性を背景にして,次第に宮廷から皇族に,更に高官に,最後には庶民の聞にまで広がっていた。ただし,この時期に様々な新しい形式の女性像が誕生したが,統一的な様式はまだ形成されておらず,多様性がみられる。例えば,房陵大長公主墓(673)(注12)の女性像の高さは極端に表現され,八頭身にさえ至ったのに相対して,李鳳墓(675)(注この時期は多様性・過渡的な性格を持っており,初唐前期型というのが適切であろうと思う。第三節初唐後期型一一武周期・中宗期陪から唐時代の初期にかけて着実に育った豊かな写実表現は,7世紀の末期8世紀の初頭に至って開花した。この時期の女性像はプロポーションが最も理想的な状態になり,頭と体のバランスがよくとれた体型で,安定した二等辺三角形をしている。顔が長く丸く,眉が太く,E!が大きくなる。鼻と口により立体感が表され,特に唇が厚く肉感性がより強くなる。均整のとれた体,胸の膨らみ,腰の締まりといった,は-483-

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