鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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っきりと女性らしい表現が強調され,初唐女性像の様式がようやく確立された。乾陵の章懐太子墓(注14)・諜徳太子墓(注15)・永泰公主墓(注16)と最近発掘された定陵の節感太子墓(注17)における女性像〔図3Jは,この時期の造形理想を反映する傑作といえる。また,~Ij天武后が政権を手に握っていた時,女性の地位がより高くなり,生活の習慣も以前より一層開放的になっていた。例えば宮人の被り物の変化について,r新唐書』巻24・車服志に,武后時,惟冒益盛,中宗後乃無復案羅失。宮人従駕,皆胡冒乗馬,海内倣之,至露誓馳腸,而惟冒亦麿,有衣男子衣市騨,知美,契丹之服と記されるように,女性ファッションの変化の激しさと開放性を強く感じさせる。今までの発掘資料と照合すると,車離は殆ど見えなく,騎馬女偏は惟帽あるいは何も被らなく蓄を露出することは記載の通りである。しかも髪型は,種類が多く,高い。この女性の開放の様子は全く前例のなく,女性の胸の谷聞がみえるほど大胆で,官能的な表現が最もよく示す。それと同時に,女性が男装する風習はこの時期も大流行した。則天武后の娘太平公主すら男装を好んだことは,次の『新唐書J巻34・五行志に記されている。高宗嘗内宴,太平公主紫杉,玉帯,宅羅折上巾,具紛嘱七事,歌舞於帝前。この時期の男装仕女は,頭に女性の暑が出現し,肩がやや広く張っているが,腰が細い。腰に掛けるものは殆ど香嚢であり,手に様々なものを持っている。第四節開元型間見時期の唐は東アジアにおける大きく安定していた大帝国で,)者・鄭繋『開天惇信記j(r百川学海』所収)は,天宝年間の盛況をよく示している(注18)。加えて,文化の交流も盛んに行っており世界各地の様々な人々が行き交う繁栄の頂点に至った。巾央と地方において殆ど差がみられないほど,周辺地域に文化の向上と均一性をもたらした。芸術の面では,身体に対するすー体的観察と表現の写実的な精神が進んだ。鮮子庭晦墓(注19)の女偏〔図4Jはこの時期における最も典型的なものである。身体も頭も前期より一層丸みを帯び,立体感の表現が重視されている。その体の表現,ことに従容として自信の溢れる顔はいずれも盛唐美人の精神を伝えている。しかし,身体は,玄宗前期484

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