前期より一層膨らみつつも,まだ天宝年間の肥満には至らない。確かに五味充子氏が指摘したとおり,開元年間は痩せ型婦人像と肥り型婦人像の交替期である(注20)。髪型については,五味充子氏がすでに指摘したとおり,耳の上に横に張った重量飾と額に垂れる警の出現が最も特徴的である〔図4参照〕。よって,この時期の髪型は,前期の極端な高さと大きさと反対に,量感と立体感の強調を中心とした。風俗の面では,この時期に胡服が盛んに流行していたことが文献史料に頻出する。例えば,r旧唐書』巻45・輿服志に,開元来,婦人例著線鮭,取軽妙便於事,侍児乃著履。戚獲賎伍者皆服欄杉。太常梁尚胡曲,貴人御撰,蓋供胡食,上女皆寛衣胡服,故有菰陽掲胡之古L,兆於好尚遠失。と記されている。一方,発掘資料を見ると,この時期の梧嬬装仕女あるいは男装仕女には,例外なく上着のFに大きな半智(注21)の袖が窺える。この点はほかの時期に見られない特徴であり,開元時期の「胡服」として理解してよいと思われる。第五節天宝型一一玄宗後期開元末・天宝初期の聞が時世の転換点であることは,那波利貞氏がすでに文化史的視点から詳しく論述している(注22)。要するに,この時期では,貴族的傾向より庶民的傾向へ,保守より開明へ,荘重典雅より卑俗へ,即ち中国の中世から近世へ転換していた時期である。従って,貴族本位の社会生活がようやく庶民本位のそれに移行し,美人に対する審美観もi斬く変わって,r姿質豊艶J(注23)といわれる楊貴妃のような肥満型の美人が天宝以降の美人の典型となってくる。このような好尚は造形芸術の面にも反映して,美しく着飾ったふくよかな肉づきの女性像がこの時期の理想と趣味となり,豊かな生活に耽る官能的な美人が盛んに作られるようになった。呉守忠墓(748)(注24)から出土した女偏〔図5Jは,この時期の典型例といえよう。つまり,全体的に豊かな体躯,柔らかい姿勢で,眠そうな顔などは官能的で,しかも無気力な感じを伝えている。髪型については,五味充子氏による詳しい研究がある(注25)。それによると,この時期の髪型は大体次の二種類に分けることができる。その一,肩まで垂れ下がった後頭部の髪が肩の周囲に贋く拡がり,賓との境目がはっきりしていない〔図5左参照〕。その二,霊飾がなく前髪を高くして,上に様々な形をしている重そうな雷を載せてい485
元のページ ../index.html#494