鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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48所収)巻下に示すとおりである。る〔図5右参照〕。一方,仕女男装の風習は前期より一層盛んになっていた。唐・劉粛『大唐新語j(r説字削巻第48所収)巻10・産革に,天賓中,士流之妻,或衣丈夫服,靴杉鞭帽,内外一貫実と記される。この時期の男装仕女像が多く出土したこともそれを裏付ける。帳頭は殆ど採用せず,I視衣J(注26)は緩やかに地面にまで至っており,草帯を腹の下で結ぶことなどは当時の好尚を伝えている。しかも,開元型と比べると,体はより柔らかくS字型をして,より女性らしくなっている。第六節貞元型一一粛宗・代宗・徳宗期安史の乱の後,粛宗・代宗・徳宗期の唐王朝は漸く安定を取り戻したが,国力が疲弊し,社会全般にわたって大きく変質したことは周知の通りである。この時期の社会風習は,徳宗の貞元年間(785-805)が最も代表的であるため,この時期の様式を貞元型と名付ける。貞元時期の社会風習については,唐・李肇『唐国史補j(r説字削巻第長安風俗,白貞元修於遊宴,其後或イ多於書法,絵画,或イ多於博突,或イ多於ト祝,或イ多於服食,各有所蔽也。つまり,安史の乱を経てから,開元・天宝年間の極端なまでの西域風文化は,次第に人気を失い,文化の面では伝統に回帰する端緒が見られるようになる。特に徳宗は文学を大いに提唱したので,社会の風習は以前の尚武中心から丈を尊ぶようになった。その中で,進士出身の新貴族たちは,社会的な地位は最も高く,以前より風流,宥イ多な生活に耽っていた。彼らの価値観と趣味は社会全般に大きな影響を与えていた。芸術の面でも当然同じである。この時期の壁画墓に描かれた仕女図あるいは出土した陶偏〔図6J (注27)がその時期の審美観をよく伝えている。体の造形は前期とそれほど変わらないが,身長は前期より低くなり,四頭身あまりのものが多い。姿勢の変化は少なく,静的である。服もより柔らかく,よりゆとりを持たせるようになった。この時期の女性の服のゆったりとしたさま・軽さ・柔軟さは,以下の白居易の『和夢昨春詩一百前j(r白氏長慶集j巻14所収)から窺える。風流薄杭洗,時世寛粧束。袖軟異文綾,裾軽単統殻。梧腰銀線圧,杭掌金僅壁。帯瀬紫葡萄,締花紅石竹-486-

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