髪型については,天宝型の第一種がまだ引き続けられていたが,新しく出現した種類〔図6左参照〕は,固く薄く鞍型の霊飾が頭の前部に当たており,またその上で雷を載せるのである。特に後頭部に花弁状の髪状あるいは扇型の雷を付することが人気らしいのである。その量飾は片側だけのものもある。それに,この高い鞍型の賓飾は前期のものと違って,蝉の翼のような薄さが特徴である(注28)。この時期,中原地域における男装仕女像の遺品はかなり少ないが,これは,恐らく安史の乱を経験した人々が,その以前の胡服及び女性男装の流行が安史の乱の前兆として認識していたことと関わっているのではないかと思われる。しかし,皇室墓である唐安公主墓に,まだ男装イ士女が発見されているという事実は,宮廷の女官の男装制度があまり変化していなかったことを伝えている(注29)。これらの仕女たちは,服飾の面では前期と変わらないが,~業頭の形は,前期の丸く重く垂れる形から,先端が丸くあるいは尖った,直立した形になった。第七節元和型一一憲宗以降憲宗の元和年間(806-820)に至って,社会全般は以前より淫鹿・放蕩の気風が渡るに至る。文学の面では元和体と言われる詩歌の形式,つまり艶詩がかなり流行っていた。元積は自分が艶詩を作る理由について,次のように述べている。又有以干教化者,近世婦人,i炎畳眉目,結約頭霊,衣服修贋之度及匹配色津,尤劇怪艶,因為艶詩百余首(注30)つまり当時の女性の服飾と化粧の面では「怪艶jの特徴が現れ,様々な奇怪な形の髪型,薄い化粧,驚くほどの衣服のゆったりとした幅と色合いなどは文化d欄熟期の現れと理解してよいと思う。その元和年間において怪奇性を追求する風習が盛んになったという事実は,r新唐書』巻34・1行志にも以下のように記されている。元和末,婦人為園髪椎警,不設費飾,不施朱粉,惟以烏膏注唇,状似悲時者。国髪者,上不白樹也。悲暗者,憂|血象也。そのほか,白居易の「時世粧」詩(注目)(r白氏長慶集』巻4所収)からも元和時期の「時世粧」の実態がよく分かる。これらの記載によると,元和時世粧の特徴は中国の伝統的な髪型・化粧と全く違い,園髪・堆警・賓飾なし,八字眉・烏唇・路面などの特徴が挙げられる。陳寅陪氏の考証によると,椅面は当時のチベット民族の風習を真似たものである(注32)。その他の風習も吐蕃の風習と関わっていることが考えられ487
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