鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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注(1) 険西省博物館・丈管会「唐李毒墓発掘簡報Jr文物j1974年第9期,71-88頁。(2) 山東省博物館「山東嘉祥英山一号惰墓清理簡報一一晴代墓室壁面的首次発見H丈る。安史の乱以降,吐蕃(チベット)は唐と和戦を繰り返していた。憲宗元和年聞は丁度唐と吐蕃の和解時期であり,吐蕃の風俗を受け入れたことは不思議ではない。この特異な風習は,丁度唐朝に流行っている怪異を追求する風潮と合致していたので,すぐ流行したのである。このような怪異を追求する風習は『唐語林校証』巻6・補遺(注33)に記されたように,元和以降にもまだ続いていた。更に,r新唐書j巻24・車服志に,丈宗(827-840)が即位したあと,I高い雲,険しい化粧,眉を去り,額を聞くことを禁じJ(注34)という記載もあるから,少なくとも9世紀前半にかなり流行ったことが分かる。加えて当時婦人たちの服が非常にゆったりとしていた点は向上の丈宗の禁令を見ればよく分かる。婦人梧不過五幅,曳地不過三寸,橘袖不過一尺五寸。中原地域の9世紀以降の紀年墓に女性像に関する出土品が殆どないが,丈宗の太和(827 -835)・開成(836-840)の間,婦人の服が非常にゆったりとして,色合いも艶麗,量飾なしの髪型と様々な髪飾りとを付していた点は敦埠莫高罵壁画の紀年がある女性像数点に見られる〔図7Jため,元和型と名付けることは差し支えないと思われる。しかも,敦埠莫高窟の壁画には,男装仕女も見られる。彼女たちは普通はみずらを結い,ゆとりのある祝衣を着ている。その視衣には花文が付いているものが多く,革帯の代りに,絹の帝を結ぶ点が特徴と言える。むすび以上の考察によると,唐代美術における女性像の様式は,唐代各時期における社会・経済・文化芸術・生活習慣などの変化と密接な関係を持ち,以上の七つの型が示すような段階的な変遷を跡づけることができた。特に,その様式の変遷が唐代女性の化粧・髪型・服飾などの激しい移り変わりにも深く関与することが窺える。だが,この様式考察上での編年の基準作は全く現有の発掘資料に限られ,例えば9世紀以降の資料が欠けることは事実である。将来の発掘の増加及び資料の完全な公表に伴って,唐代の女性像の様相がますます明らかにされることは期待される。488

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