⑮ 寛政度内裏造営における障壁画担当絵師の選抜過程とそこに見られる意図の研究研究者:奈良県立万葉文化館学芸員福田道宏はじめに天明8年の「駆け込みJ法橋天明8年(1788)正月晦日,建仁寺付近から出火した火は大風に乗ってひろがり,2月l日未明に内裏が炎上,京都は未曾有の大火に遭って焦土と化した。その8月,ひとりの絵描きが宮廷より法橋に叙され,これを皮切りに翌寛政元年(1789)2月にかけて,次々と8人の絵描きが法橋に叙された。即ち8年8月佐久間草値,11月に田中前言・桃田栄雲・村上東洲,12月に蔀関月・吉城元陵・大岡春山,明けて翌2月には大村豊泉。いまだ京都は復興も遂げず,内裏の再建も始まらない,時の宮廷のあるじ光格天皇すら避難生活を送っていたこの時期に,である。8人の叙法橋の時期は『画工任法橋法眼年月留j(注1,以下「年月留J)からの推測。記載期間は,宝永5年(1708)■享和4年(1804)の97年間。比較のため,同資料の年毎の記載件数を見るなら,前年天明7年は無し,天明8年を除くと安永6・天明2年(1777・82)の5人が最多。計8人は,文句無しの最多記録である。これは一体どういう事なのだろうか。本報告では,寛政度内裏造営における絵描きの選抜過程を文献資料をもとに追い,選考基準を明らかにしたい。具体的には,既に紹介・利用されてきた『造内裏御指図御用記j(注2)の筆者勢多章純と共に「造内裏御指図御用掛J(以下,I掛J)を勤めた士山武辰の日記を始めとする士山家伝来「禁裏御所御用日記J(注3,以下「土山J)を中心に,選抜が如何に行われたか見ていく。そこで明らかになるのは,願出た120余人の絵描きから約半数の70名が選ばれるに際し,頻りに問題とされるのは第1に身元と先祖を含む宮廷での御用履歴・由緒であって,絵の技量は二の次であった事である。由緒がなく,法橋・法眼に叙されておらず,地下官人等宮廷に出仕する者でもない者だけが,席画という実技試験で技量を問われた。この事実から8人の「駆け込み」理由に答えを与えるなら,それは,これから始まる内裏造営の採用に有利だったからではないだろうか。なお,紙数の都合上,今回翻刻し使用した資料について性格付けと引用に最低限しか割き得ない事を予め御断りしておく。では,まず,絵描きの選抜過程を見ていく事にする。494
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