選抜過程一身元札と席画一寛政度造営では,紫震殿・清涼殿等一部の殿舎が,天皇と廷臣らの意思で「復古」された事はよく知られ,またその「復古」の内実や,そこに至るまでの幕府と宮廷の政治的駆け引きについては多くの研究がある(注4)0 8年4月7日,土山武辰は掛を仰付けられた。「土山J234~ 9 r造内裏御指図御用掛記井自分記Jは武辰のこの拝命の記事から始まる。以下これを中心に選抜過程を見ていく。5月25日「種々古図Jの仰付けがあって土佐土佐守(光貞)が登場する。さて,絵描きの出願が記録されるのは9月25日である。この頃絵描きが武家伝奏に御用を願出,追々掛宅へも入来し始めたらしい。誰がいつ来たかは,残念ながら不明。武辰自身も「一統罷越候哉不分明」とする。同日絵描き3人の名が記録される。山根図書・竹内由右衛門・三谷逸記が掛へ願書を差出した。彼らは後で見るように,他の絵描きとは扱いの違う者たちである。彼らは絵描きは「伝奏衆」へ願出る旨だが「御内之輩」なので掛を通じて願書を提出したと言う。このように早期から故実調査に当たった土佐家のみならず,絵描きの中で伝達や仰付けの際の扱いに区別があった事は銘記されてよい。明けて9年1月20日(25日寛政と改元)以後,光貞は絵図等の御用で登場するが,絵描きの選抜に進展が現れるのは4月以降である。6日掛は焼失前の仙洞・女院御所障壁画の画題・筆者名前書を各御所の執次から入手。選抜の参考にするためだろう。5月2日「絵師土佐以下人数書」が掛に渡され,記載の者の「代々之由緒・御用相勤候由緒等書付」を6日に光貞に提出させるよう申渡し。光貞は6日に掛を通じて提出。ところが8日「今少し委」しく書くように言われ10日に帳面再提出。しかし求められた委しさには程遠かった。光貞に加え御扶持人鶴沢探索も参加するようにとの事で帳面は差戻し。11日探索へ絵師身元札の下命。18日光貞・探索から「絵師身元札帳」を提出,掛で御用履歴を勘使へ確認するよう下命。20日勘使の返事を得て掛から帳面を提出したが,I初而願候者共身元,画ヲ業Jは分るが父も絵師か分らないので別帳で差出すよう申渡し。なお島田元直は21日に光貞から弟子が誰の枠か申告するよう指示があり回答(注5)0 24日光貞が「初市御絵御用相願候者共身元帳」を持参。掛で一覧,分らない個所の書き改めに返し,26日「絵師之輩身元帳J2冊提出。今度は父が町人の者は家業が分らないので別紙で提出するよう申達。29日「始而御用相願候絵師共之父町人等家業・商売等之由緒帳面」提出。6月2日常御用を勤める者は除き,宿所を差-495-
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