道)は若年だが御用を勤めるのに問題無い事を光貞・探索連署で差出した。30日光字・琢道を除く絵師一統が町奉行所へ集められ申渡しがあった。光字・琢道の申渡しは遅れて4月19日だった。地下官人・御内之輩は別席に控えて少々の会釈がある等ここでも扱いが違った。4月1日光貞・探索から掛を通じて武家の申渡しの報告。ここに「土佐守・探索へ者御絵料之義ニ付書付申達し有之候義も有之候得共,此{義者不相届」と武辰は記す。報告されない「絵料之義」とは,恐らく西和夫が「江戸方に対し,京都方はそれより高値を要求するだけの実力を備えるに至った」と京都の絵描きの方が画料が高いとする事に関わるものだろうが,本報告では割愛する(注8)。漸く朝廷・幕府双方からの申渡しを経て,採用者は決定された。さて,さきに元年8月の追願の者があれば申出るようにとの指示には触れた。追願はあったのか。既に町奉行の申渡しの段階で,冨左近将監(富敦光)が採用者の中にあって,いつ如何に採用されたか未詳である。町奉行申渡しの後5月19日には採用者の病気・死亡などで出た欠員は「新ニ人数御加へ無之,仰付有之候人体之内へ」追加や変更で済ませる事が記されるが,28日には追願の者の身元札が再び持ち上がる。29日条に挙げられた身元札が無い者は33名。ここに富敦光の名もある。7月5日光貞からの身元札帳が提出された。敦光を除き,その後,追加採用の形跡は見られないが,この中には月岡雪斎・中村芳仲・望月玉仙・景山泰輔(狩野永章か)等が含まれる。身元札の意味ーまとめに代えて何故,これ程執劫に身元が問題とされたのかは,さきに挙げた寛政2年2月26日の所司代の書付に端的に表われている。後世に残り,世間一般で唱える事も軽くない。内裏造営は,朝廷の威儀を整えるだけでなく,源頼朝以来の武家政権が朝廷の経済的庇護者であり,朝廷に代って政治を行う必然があると証明する場であり,徳川政権にとっても威信を目に見える形で,朝廷と広く社会に知らしめる絶好の機会であった。そこを飾る絵を描くのが,身元不確かな絵描きである等論外であった。もちろん,御用履歴があるという事は,絵の技量も確認済である事を意味している。しかし,採用率の比較からは,絵の技量に劣らず,如何に身元が重視されたかがわかり,さきの選抜過程で繰り返し行われた「身元札」の実際が見えてくる。全員とは言わないまでも,冒頭の「駆け込み」法橋の内に,採用に有利という判断から叙法橋を急いだ者がいたと考えるのは果たして報告者の穿ち過ぎであろうか。499
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