鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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録3J, 1992), W近世政治史と天皇J(古川弘文館,1999),西和夫『建築史研究の注(1) 京都大学国史学研究室(文学部閲覧室)所蔵。これについては野口剛氏による翻席画の難関をくぐり抜け採用された原在中は,後に実子4人中2人を地下官人の養子とし,その子在明は婿に跡を譲って実子は地下官人の養子とした。有栖川宮家来岸駒はこれより後,地下官人を継いだ。また山本守札の養父探川の実子は地下官人野村家を継いでいた事が判明する。旧家にしてもそうである。原や岸といった新興の絵描きにとって,土佐・鶴沢家になる事は不可能で、も,法橋・法眼に叙されるか地下官人の養子になる事は可能で,彼らは後者を選択した。また,寛政度採用者の子孫には,先祖の御用履歴が由緒として加えられる事になった。この事は文政7年(1824)の絵描き一統の盟約(注9)や,安政度造営の多人数参加の伏線となって行くのである。刻と紹介「絵師の僧位叙任をめぐる断章一『画工任法橋法眼年月留』の紹介をかねて一J(W朱雀13.1,2001)がある。氏の指摘の通り,不審な点も多く,叙任当日ではなく御礼の日付で,御礼が誰に対するものか不明。筆者人見恒孝についても不明だが,関係の有無は未詳ながら明治初期の官員禄に人見恒親や人見恒民がいる。他資料と比較すると,土佐家5件の内初位4件の場合,御礼の日付は叙任数日後で元服当日,残るl件は光貞の従五位上土佐守叙任の御礼(W地下家伝j<自治日報社,1976>)。雲谷家の口宣案と比較すると,等澄・等知・等竺・等徽の誤記であろう等徹の御礼は各々当日・13日後・4日後・3日後である(W雲谷家口宣宣旨写』東京大学資料編纂所謄写本)。冒頭で挙げた吉城元陵は元龍とあるが『年月留』の誤記か。同じく大村豊泉は『年月留』明和3年(1766)8月・寛政元(2) 宮内庁書陵部所蔵。(3) 国立国会図書館所蔵(826-91)0 371冊。士山家は近衛府宮人。(4)松尾芳樹「寛政度内裏造営における清涼殿障壁画についてJ(W土佐派絵画資料目新視点ーj(中央公論美術出版,1999)等。(5) 島田貞彦「近世に於ける京都画界の組合組織と内裏御造営J(W歴史地理j24 1, 1914)。貞彦は元直の子孫。同家伝来「島田家文書J(京都大学所蔵)は今後の課題としたい。年2月に豊水が登場し,後者がその子豊泉の誤記と考えられる。500

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