鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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④ 響泉堂・森琴石の銅版画について1.響泉堂・森琴石の研究史と評価研究者:大阪市立近代美術館建設準備室研究主幹熊田「先生は摂津の人名は熊字は吉夢,琴石と号す銭橋道人,聴、香讃董棲は其別競なり客歳入の勧むるに逢ひ熊を繁と改む梶木源次郎の四男にして天保十四年三月十九日有馬湯山町に生る家世商買たり生後聞も無く森著作の養子となる嘉永三年八月鼎金城の門に入り初めて童法を撃び文久元年六月金城の残後忍頂寺静村に就いて南宗派の描法を修む元治元年三月妻鹿友樵,高木退戴等に就いて経書詩文を聴き明治六年三月東京に遊び洋童家高橋由一氏に就きて其の童法を撃ぴ東西両洋の長短を極め後筆を載せて諸国を歴遊し技愈熟すJ(注1)というのが,南画家森琴石(1843-1921)の修学期を叙する常套的な文言である。全国絵画品評会や日本南画会等の設立に関与したことや浪華画学校の発起,また内国勧業博覧会や日本美術協会での活躍,文展審査員を務めたことなど,後年功成り名遂げた後の事跡がこの記述につづく。琴石の七回忌に門人たちが編纂した『森琴石翁遺墨帖.!(注2)に近藤翠石が記した「森琴石先生小傍Jも大同小異であるが,1明治十年西南役後清園墨客諸名士之来舶に曾す也率先訂交し以てi折派之謹奥を極めて別に機梓を出し遂に一格を樹つ」との事歴が挿入されている。そして著書としては『南董濁撃.!r墨場必携.!r題董詩集』を,いずれの伝でも挙げている。草創期洋画の開拓者であった高橋由ーの門を蔽いたことや,来舶清人画家との交遊が南画家の伝としてはやや目立つ。しかし,響泉堂を名告って明治10年代に盛んに銅版の仕事を展開したことには,一切触れていない。ただ主著として両伝が掲げる書物は森琴石編輯になる南画・漢詩文の手引書ないし画手本であるとともに,いずれも「響泉堂刻」の刻記を持つ銅版本であって,響泉堂が琴石その人であることは周知の事実であった。にもかかわらず,銅版画師としての琴石に言及しないのは何故か。明治初年の混乱期のなかで日本画家たちが生計に窮して,たとえば禄を離れた狩野派の芳崖が路頭に迷い,橋本雅邦はわずかに手内職で糊口をしのぎ,また川端玉章や荒木寛畝が高橋由ーに入門して油絵への転進を図った事実はよく知られている。琴石の由一入門については,由一側の「天槍塾門人牒jに記録がないが(注3),銅版画制作については生活のためという大きな要因を否定できないであろう。内なる気韻を筆端にあらわし,文人の高雅な自娯に徹すべき南画家が,それとは正反対の手職的な銅司-42 -

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