鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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2. I教育的」展覧会われたインタビューにおいて,画家は既にこの質問に対して一つの回答を与えていた。そこでマテイスは当時没頭していた装飾パネル〈レダ)(44~46年,個人蔵)のプロセス写真を示しつつ,その役割をパーンズ財団〈ダンス〉創作時におけるそれと同じものとして,つまり作業の最中の確認手段として定義している(注3)。だが,画家によって個人的に使用されるだけではなく,積極的にメディアに発表されている以上,この「公式見解」は不完全なものであり,プロセス写真には単なる仕事中の「控え」という以外の側面も備わっていたのではないか。こうした問いに対して批評家たちは,この展覧会の目的が,一点の絵画制作に費やされた労苦を視覚的に明示することにより,マティス作品の与える,軽快優雅な,しかし場合によっては浮薄とも受け取られかねない印象を否定することにあると考えた。周知のように,世紀初頭の有名な「フォーヴイスムのスキャンダル」以来,画家の作品(とりわけその形態・色彩上の単純さ)はしばしば物議を醸してきていたのだから,この推論は妥当なものと見える。しかし他方では,この時期マテイスの名声は確立されて既に久しく,マーグ個展の直前に閉幕した45年度のサロン・ドトンヌではまるまる一室がマテイス回顧展のために割かれ,フランスを代表する巨匠としてのその地位が再確認されたところだったのである(注4)。実のところ,問題はこの一見揺るぎない成功にこそあった。先に触れたインタビューにおいて聞き手レオン・ドガンは,若い芸術家たちの聞にマテイスの作品を口実として研鑓を怠り,安易な絵画を制作する傾向が見られるとの懸念を表明するのだが,まさにこの間いに答えるに際して,画家は〈レダ〉の写真を提示しているのである。その僅か2カ月後に行われている以上マーグ画廊での写真展示にも同じ懸念が影を落としていたと考えるべきだろう。かくして問題の展覧会の第一の目的が明らかになる。そこには,次世代に拡がりつつあった「楽々と描く画家」との誤解を実際の作業の困難さを余すところなく公開することによって反駁し,絵画のあるべき道を示すという「教育的jな意図が働いていたのだ。この意図が同時代の公衆にはっきりと伝わったことは,再び同時代の批評を通じて確認できる。或る評者の「一点のマテイス作品の背後にはこうしたもの全てがあるの503

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