鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
513/670

3.解釈の問題れ少なかれ完全で自律した複数の絵画の併置といったものではないだろうか〔図4~9J。事実,画家に関する初の体系的・学術的モノグラフ(51年)の中でアルフレッド・だ!Jという感嘆に集約されているように(注5),マーグ個展は何よりも観者を激しく驚かせることによってその目的を達したのだ、った。さらに,この展示は意外な副次効果を備えてもいた。20世紀前半のフランス美術批評は概して詩的だが空疎な雄弁といった趣を持ち,往々にして対象の具体的な有り様には無関心なのであるが,今回に限ってはその批評家たちもその限界を脱し,画家の行う様々な作業を分析しようと試みたのである。マテイスの「教育」は結果的にその直接の対象(後進の画家たち)を越え,より広い範囲に及んだと言うことができるだろう。では,マーグ個展によって明示されたマテイスの制作過程を,同時代のテクストはどのように解釈したのか。ここで批評家たちはその常套に逆戻りすることになる。当時のマテイスに関する言説はこの画家の作品を,不要な部分を除きつつ究極的で純粋な造形を求めるひたすらな予定調和的前進の結果として捉えるのを常としていた。上述したように時としてスキャンダルを招きかねないマテイス絵画のラデイカルな単純さを擁護するにはそれが唯一の方途と感じられたからである。したがって,問題の展覧会に際しでも,その批評には「純化JI爽雑物の除去JI結晶化」といった語棄が頻出することになる。のみならず,こうした解釈はマテイス自身によっても承認されているように思われる。様々な機会に画家は,細部に捕らわれず対象の本質を捉え表現することこそが自らの目的であると語っているのだ(注6)。だが,実作と言説の聞に幸福な調和が成立するかに思われるその一方,注意深く読んでみると,同じ批評文の中には,こうした調和を撹乱する要素が潜んでいることがわかる。展評子の一人ガストン・デイールが苦々しげに報告するところによれば,プロセス写真を前にして,そこに何らの「論理jも「必然性」も見出すことができなかった観者が一定数存在していた(注7)。彼らは,マティスがまったくの「気紛れ」に従って描いており,したがってどの段階で筆を止めてもよかったと考えたというのである。デイールはまったく不可解なものとして片付けているが,今日我々の視点からするとき,このような感想は果たしてそれほど荒唐無稽なものだろうか。問題の写真が与える印象は,切れ目なく連続する不可逆的な前進というよりもむしろ,それぞれが多か「純化Jvs I気紛れj504

元のページ  ../index.html#513

このブックを見る