鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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4.マテイスの方法パーは,上述した〈レダ〉の凶版を収録する際,途中段階の一つを完成作として掲載してしまっている(注8)。無論,当時は依然として情報が混乱していたという事情はあるにせよ,このことは,マテイスの絵画がどの局面においても何らかの完成度を備えているとの印象を傍証するもののように思われる。加えて,この印象はマテイスの絵画制作法と密接に関連している。35年のインタビューで画家は次のように述べていた。「どの段階でも,私は一つの均衡,一つの結論に達しています。次の回,もし全体の中に弱い部分があるとわかれば,私はこの弱い部分を通って再びタブローの中に入り込むーーその裂け目を通って立ち戻るしたがって全ては再び運動しはじめ,個々の要素は(オーケストラにおけるように)諸力の一部に過ぎないのだから,全てが様相を一変することもありえます。追求されている感情は常に同じですがJ(注9)。ここで明瞭に語られている通り,マテイスはタブローの構成要素(色彩,椋)を,たがいに詰抗する複数の「力Jとして捉えており,ゆえに絵画制作を,相互に破壊し合わないようこれらの力を組織していく作業と見なしていた。それは煉瓦を積み上げてアーチを築くのに似て,中途半端な形で放棄することは許されず,(少なくとも一応の)1均衡」を実現しなければ両家は手を止めることができない。したがってマテイスが制作の過程で一区切りついたとして撮影させるとき,たとえばまだ余白が多く残されていたとしても,1諸力」の聞にバランスが成立している限りにおいて,タブローはそのままで既に「一つの結論J=完成に達している。同様に,次の回における作業の再開は,既存の部分に対する「加筆jというよりも,根本的な再出発を意味するのであり,ゆえに諸ステートはそれぞれかなり異なったものとなる(1全てが様相を一変することもありえますJ)。マーグ画廊で展示された写真は,マテイスの制作手続きが持つこのような特徴を浮き彫りにしていた。そして批評家たちもまた,全体的な論旨においては依然予定調和の美学に拘束されながらも,それと矛盾する要素がプロセス写真の中に存在している(一時的)均衡と再出発,そして全てを改めて構想します。505

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