鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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5.マーグ展の戦略一一一時間の空間化ことは漠然と感じ取っている。「純化」の視点に固執する前述のデイールさえも(間違いなく我知らずにではあるが),この問題に関して興味深い指摘を行っている。写真が示す各制作過程は,画家が経過してきた様式の数々(フォーヴイスム,キュビスムの影響,ニース時代,等々)に対応しているように見えるとディールは述べるのだが,ということはつまり,マテイスの諸様式がゆるやかな共通性を保ちつつそれぞれ独立したものであるのと同じで,一点のタブローの各ステートもまたおのおの別個の価値を備えていることになるだろう。したがって時間軸上最後に位置する「決定段階jが他の全てに優越するということにはならない,という結論を引き出すことも可能なのではないか。事実,先にヲ|いたパーの失策が示唆する通り,I完成作Jがあらかじめ与えられておらず,写真のみから判断しなければならない場合,ステート聞の前後関係を正確に復元することはきわめて難しい。ここでは予定調和的な過程を読み取ろうとする意志が常にはぐらかされ撹乱されるといった事態が生じているのだ。展示が与えるこのような効果を,マティス自身は果たしてどのように考えていたのだろうか。会場におけるタブローと写真の掛け方は,一見して完成作を特権化するよう仕組まれているかに思われる。冒頭で述べた通りなるほど写真はかなりの大きさに引き伸ばされ額装されているとはいえ,実物よりは一回り小さく,また額もタブローのそれに比べると簡素だ。何より写真は白黒だったのだから,壁面中央に据えられた絵画は,その色彩とサイズによって周囲から際立っていたとも推測されよう。にもかかわらず,このようにして併置された写真を見るとき,観者の眼は端から端まで')11買を追って進んでいくというより,絶えず上下左右に横滑りする。まさしく,各ステートの聞に視線の滑らかな移動を可能にするような要素がなく,全体として「断続的連続」とでもいった様相を呈しているからだ。さらに,展示会場を捉えたマルク・ヴォーによる写真をさらに細かく観察してみると驚くべき事実が判明する。諸段階は時間軸を無視する形でほぼランダムに掛けられているのである(注10)。批評家たちが写真の連なりに「論理的」で「必然的」な直線的過程を見たとき,それはあらかじめ撹乱されていたのであり,したがって何ら根拠のないものだ、ったのだ。したがってマーグ画廊における展示は,予定調和的なプロセス読解を密かに,しかし決定的に瓦解させてしまう(注11)。これは,本来時間軸に沿って展開された作業を-506-

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