6.結論うJ)を,印画紙に定着させることで再び現在化し(1こうもありえるJ),最終状態の写真に撮影し,このように併置してみせること,すなわち時間の空間化によって達成されている。壁面に展開され,視線に対し同時に提示されることで,各ステートの聞に,(映画においてそうであったように)順繰りに一つ一つ見ていったときには判らない形態的関連が存在することが明らかになる。日付と番号は撮影の際画面の隅に添えられた小さな紙片によって示されているのだから,時間的順序を辿るのも不可能なわけではないが,そのようにして読み取られる行程が他と比べていささかも正統的・特権的なものではないということを,この「時間錯誤的Jな配置はまざまざと見せつけるのだ。この点で,<夢〉のプロセス写真のみがおそらく撮影の順序に厳密に従う形で配列されていることは奇妙に思われるかもしれない(注12)。しかしながら,ここに矛盾はない。すぐ左隣の壁面に掛けられた〈ルーマニアのブラウス〉の展示が時間軸を尊重していないということを知った以上,観者はもはや疑念なしに〈夢〉を見ることはできなくなるからだ。再びー続きの連続的な過程が読みとれるように思われたにせよ,それを正当化する根拠が存在しないことは既に証明されてしまっているのである。複数性の解放へかくして,マーグ画廊における展覧会は「教育的」であるばかりでなく,その特異な配列を通じて,同時代の美術言説に対し根本的な批判を突きつけるものであることが明らかになる。しかし,こう述べただけではまだ充分ではないだろう。この展覧会は,絵画という実践に関するマテイスの思考そのものの表明となっているように思われるからだ。そもそも,ここで写真によって示されているものとは何か。それはすなわち,1完成作jに辿り着く聞に放棄されたいくつもの可能性にほかならない。タブローを仕上げることとは,このように複数の選択肢の中から一つのみ選び取り,他を排除することである。プロセス写真は過去の一時点における潜在的可能性(1こうもありえたであろ「最終性jを疑問に付すのだ。19紀後半から20世紀にかけて,多くの芸術家たちがこうした排除と選別を問題として意識しはじめたように思われる。なぜあの形態ではなく,この形態を,なぜあの色彩をではなく,この色彩を選ぶのか。主題からそれを表象する際の技法までを規定し507
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