43 ~ 14年刊の『和漢封照挿童明治新用丈大成』の挿絵であることを指摘された(注8)。徐々2.響泉堂・森琴石の活動期間と技術の出自についてもとより響泉堂琴石の銅版作品は他にも存しょうが,明治8年から20年(1875~87)頃までが響泉堂の活動期であったと,ひとまず結論づけて良いであろう。ただ,r新撰版技術を生業とすることについて,知己や門弟たちに抵抗感が大きかったことが原因と思われる。しかし,洋画と並んで南画は明治初頭に最も隆盛を極めた画派であるし,明治15年(1882)のフェノロサによる『美術異説j演説(注4)に始まる南画と洋画の排斥も,大阪には大きな余波をもたらさなかった。琴石の銅版画には,日々の糧を得るという以上に何か必然的な契機があったのではないか。そして,それを首肯させるに足る多くの作が残されている。銅版画家としての響泉堂森琴石をはじめて本格的に紹介し,1首代の京掻銅版董家としては,彼はまさに石田雨萎亭と控稿すべき重人であらう」と評価したのは西村貞である(注5)。また『印刷文明史jr日本版董変遷史j(注6)の二大著を残した島屋政ーも後者で森琴石を採り上げたが,作品への言及はない。「のち大阪で堂競を響泉堂と稿して相富手弘く銅版彫刻の門戸を張ってをるところをみると砂からず隔世の感がないではない」と記す西村が紹介した琴石の銅版作品は,1京畿をはじめ諸園の諸勝景を取扱った一枚摺り鋼板の聯作」とする20点のほかわずかに5件で,この「連作」と『銅錆侃文粛耕織圃二帖J.r新撰梅渓月瀬異国』をとりわけ激賞している。しかし西村の言のとおり,かなり鹿大な数の響泉堂所錆銅版画・書がなお未紹介のままに眠っており,なかには西村にはじまる琴石評価を再考させるに足るものもあると考えられる。平成10年(1998)に神戸市立博物館で開催された「特別展有馬の名宝Jでは,15件の琴石銅版作品が紹介された(注7)。また,森登氏は「一枚摺り銅版画の連作jが明治に琴石銅版画の知見も更新されているのではあるが,森氏も西村の評価を踏襲しているがごとく,必ずしもその実像が深まったとは思えない。つぎに,その出自について考察を試みるとともに,可能な限り響泉堂所錆作品を渉猟・紹介し,その広がりと深みに照明をあてたい。現在確認できる響泉堂所錆作品は,管見の及ぶ限りでおよそ60件,その大半が書物である。最も早い時期に属するものは『永田氏改正暗射地球語圏Jと『朝鮮圏全園』(明治8),また最も遅い時期にあたるのが『新撰梅渓月瀬勝景異園.1(明治20)である。
元のページ ../index.html#52