フリーズ形式の画面構成を用いた本生図は時代が進むにつれて,大画面へと移行し,その過程で法華経変相図が登場したといわれる(注6)。一方,本来,説話図の各場面を区分する役割として描かれる,南北朝期の風景の各モチーフによる区画が次第に拡大されつつあり,場面展開が一層多様化・複雑化されるとともに,前後左右にわたって画面全体を包み込む,纏まった大きな山岳景となったのである。七世紀初,唐王朝が南北朝時代の混乱・分裂を収めて政権を確立し,敦憧への支配を強めるにともなって,敦煙壁画における様式や制作技法などにも大きな変化が現れる。七世紀前半の造営とされる敦埠第209窟では西壁全般およぴ南北両壁の西側の壁面に,大画面の山岳景が仏教説話の背景として配される。南壁西側の山岳描写を見ると,南朝から唐時代に至るまで,長期間にわたり用いられてきた「駐山式J(酪駄の癌のような形)のスロープが,前後左右にY字状に表現されている。峰々の輪郭の上,もしくは地面には,大きさがほぼ同様な形式化の樹木が並べて描かれているほか,雲が山の中から空中へ流れてゆく様子が描かれる。さらに,画面上の水平線を示す最遠景として低くて平らな遠山を図の上段に置き,その後ろに赤色の横雲を三段にヲ|いている。次に,七世紀後半の重要な作例と見られる敦埠第321窟南壁に,この時期に流行していた大画面の「宝雨経変相図JC図1]が描かれる。釈迦の霊鷲山説法の場面を中心に,宝雨経の説話がその周辺に描きこまれている。そしていまだに不自然さを持ち装飾的にしか見えないが,峰々,断崖の凹凸,岩襲の描写,樹木の表現は,敦煙第209窟のそれに比して,より進化した形を取っていると見ることができる。画面の最上端に伝統的なY字状の山々を上下に積み重ねるとともに,r近大遠小jという,南北朝以来山水表現においてとられてきた構図を巧みに取り入れ,かなり高い完成度を示したのである。以上の二例,とくに後者を通じてみたように,初唐期の山水描写は単なる仏教説話の背景,舞台としてのみ描かれているのではなく,当時の画家の自然に対する観察・理解が大幅に進んでいたことを反映しているのである(注7)。山岳景,もしくは山水モチーフが人物描写を凌ぎ,画面の主宰となり,そして独立した山水画として発達せしめたのは八世紀初頭であるが,正倉院山水図のような成熟な山水画にいたるまでは三,四十年もかかるであろう。実際,八世紀以降の山水表現には,敦埋壁画だけではなく,西安で発見された唐代貴族墓の墓室壁画にもみられるとおり,一段と大きな展開を遂行し,さらに有機的な統ーさと自然さを顕示したものが現れるのである。これはいうまでもなく,八世紀初から開元・天宝期にかけて,盛-514-
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