神龍年間(705~707)と推定される敦憧第217窟は,南壁の「法華経変相J,北壁のむ形態・組み合わせが表現されると同時に,量感または現実感が強くl~じられるよう唐中央両壇において実現された山水両史tの一大出来事,つまり「山水の変jと直接的に関わっていると考えられる。「観経変相J,さらに東壁の「法華経普門品jなどに豊富な風景表現が含まれる。とくに,南壁の「法華経変J. I化城聡品」・|提婆達多品」はしばしば取り上げられて著名である。説話の各場面を大構図の山岳景に翫め込んで前代のように人物が画面の中心存在として大きく描かれるのではなく,大自然の一部とみなされ,ふさわしい大きさをとるとともに,山川・大地のほうもより現実に近い形を呈している。言い換えれば,人物と大自然、は,組酷なく,より合理的に融合しつつあったように見られる。敦憧第217窟と制作年代がきわめて近いものとしては,高宗乾陵陪葬墓,章懐太子・李賢(神龍二年,706)墓,または中宗定陵陪葬墓,節感太子・李重俊(景雲元年,710)某が挙げられるが,これらの墳墓にも,上述の第217窟と同様,新たな展開を遂げた山林風景の描写がみられる。それらは独立した一幅の山水画ではないが,八世紀以来,山水画が人物画という根強い伝統から脱却し,一個のジャンルとして独立の方向へと変化してゆく過程を示す作例とも言うべきであろう。前者墓道口西壁の「馬球図J[図2Jにおける山林描写は依然として六朝・初唐以来の典型的Y字状のスロープを採用し,山林風景は一,ての岩石や樹木を配すのみで,全画面のほんの一部を占めるに過ぎないが,これらは生き生きとした存在感・臨場感をともなって描かれる。前の南北朝あるいは初唐期に比べれば,人物活動の場面と有機的に一体化した構成効果を果たした一方,人物画の背景から濁立しようとする傾向がさらに強まった。このことは画家たちの空間・景物に対する認識または関心の深化によって,レベルの高い写実能力が獲得されたことを示していると思われる。僅か三,四年の時間差に過ぎないが,李重俊墓の墓道東西両壁下段に,前者または諮徳太子・李重潤墓の儀位出向図に比するというより,むしろ風景の各モチーフの聞に有機的なまとまりのある風景表現がみられる(注8)[図3J。三墓の壁画の聞に様式的に類似点が多いため,同一,もしくは関係が緊密な宮廷工房の工匠によって制作されたのではないかと推測される。岩石,谷,池,樹木や草花などによって変化に富に描与され,儀杖人物とは何も関係が見出されず,まさに一個の独自な世界を営み,存在していると言えよう。
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