下る720~730年代になると,盛唐期において急速に進展を果たした結果を反映する好例として,敦埠第103窟南壁の「法華経変相図」がある。構図的に第217窟のそれに近似し,画面中央に釈迦が霊鷲山での説法,つまり「序品」をあらわす場面の東西両縁に,それぞれ「妙荘厳王本事品J,I化城日食品」が配されるが,技法上の洗練さは勿論のこと,とくに開元年聞における特有な勢いが盛んな生気を遺憾なく表出するように感じられる。「化城輸品J[図4Jでは,説話図の各場面に応じて遠近表現が前後に反復され,左右から聾え立つ高峻な懸崖がその聞を流れてゆく幅広い大川,遠山の重なりと互いに呼応しあい,たとえ多少不自然な箇所があったとしても,壁画全体の構図が複雑化の中,一定の安定感に達したと認められよう。高い懸崖から垂れ下がった植物,または大川の水面に落下し大きな響きを発する滝の表現はきわめて現実的であり,見る人さえ思わず手で触れてみようという触覚的な立体感を有する岩壁,小さい石,樹木,花草,そして水流の急速な流動感などは,まさに『歴代名画記Jに記される呉道玄に関する記事を訪併とさせるようである(注9)。三,正倉院宝物にみる八世紀以降の山水構図正倉院宝物のうち,八世紀の山水表現における斬新な展開を果たした代表作であり,画面構成的にも技法的にも上述の敦憧第103窟の「化城聡品Jと直接対応すべきなのは,楓蘇芳染螺鋼琵琶揮援画『騎象奏楽園j(南倉)であろう。だが,それを述べる前に,制作年代が少々早く,その先駆的存在であるとされる紫檀木両槽琵琶拝援画『狩猟宴楽図』に触れておこう。山林聞に虎狩りをし,野外で宴会を聞き楽しんでいる様子が描写され,小画面の中,情景が上・中・下三段ほどに分けて描き分けられ,かなり複雑な構図を収める。この拝援画には,I近大遠小」の構図が配慮されており,近景から最遠景にかけて三段に重なる構成のうち,遠近各段の空間的繋がりは有機的な統一感を欠くが,敦憧第103窟の「化城聡品jと同様に,画面の片側または両側から高く釜え立つ懸崖,崖の下または対岸に配される低くて丸い正(土壌)の重なり,そしてその聞を蛇行して奥までに流れてゆく渓谷との組み合わせなど,いわゆる「断崖幽谷式」の新構図を用いている。こうした新たな山水構図法の原型は七世紀後半頃に初出したと推定されるが,八世紀に入ってから,次第にパターン化・定着化し,盛唐時代の山水画に頻繁にみられるようになるのである。例えば開元二十九年(741)に再建された陳西・慶山寺遺跡から出土した舎利宝帳の「舎利供養図J[図5Jがこうした例として
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