挙げられる。純粋な山水面ではないが,本格的な山水構図を持つ『騎象奏楽園j[図6Jに,象に乗った奏楽人物の背景に大観式の山水景が配されており,背景の懸崖は仰視の角度をもって捉えられるのに対して,近景のほうが術搬視の手法を取るという特徴は,すでに慶山寺舎利宝帳の「舎利供養図」に見出される。空間的な不合理さを一掃し,一定の安定感を収めて,これまでにない高い完成度を成し遂げた「断崖幽谷式」山水構図のーっと言えよう。自然でなおかつ流暢な筆遣いによって描かれた断崖,岩石,渓谷や草木などから見て,きわめて成熟した技法が駆使され,八世紀半ばにおいて空間に対する意識が変化し,物理的奥行き・実在さに対する認識が深まったことが明らかである。こうした風潮の中,近年,唐代山水画研究上にきわめて重要な作例として,陳西省・富平県呂村郷,献陵陪葬墓区の墓主知らぬ唐墓から一曲六扇の山水扉風壁画が発見される(注10)[図7J。西壁にある六扇の山水壁画は本格的な山水画,つまり一個の独立したジャンルとして山水画が描かれるのである。とくに西壁南側からの第二扇の空間表現は,r騎象奏楽図』と類似し,成熟した展開を見せたという「断崖幽谷式j構図を持つに違いない。また,開元末から天宝初(740年前後)の制作とみられる敦煙第45窟北壁東側,I観経変相」の釈迦説法の場面,または[騎象奏楽図』にも見られるように,八世紀中葉前後に流行した「色墨混用法jを駆使したことも明らかである。遺憾ながら,富平県日村郷唐墓はかつて盗掘にあい,墓誌銘も副葬品も何も残らないゆえ,墓室の正確な造営年代は明らかではないが,主室の四壁に配される見事な壁画の様式を分析・判断すれば,740年代のものだと思われる。おわりに以上,正倉院山水図,敦埋・長安壁画を中心とした考察により,七世紀後半から八世紀中頃にかけての百年に近い聞に,山水表現が人物画の枠から離脱し独立の描写対象となったこと,また絵画の自主性が高まるなかで,本格的な山水画の成立を見るに至ったことが明らかになった。単に山水モチーフのみを主な描写対象とし,人物図・宗教説話図に付属しないようになった実況は,八世紀の人々は山水画に対する馴染みが深まり,山水画を好むという新たな認識によって,日常生活用品・調度品に独立した山水画を装飾として描き込ませることに反映されるであろう。いずれも正倉院中倉に所蔵される「黒柿蘇芳染金銑桧山水絵箱J[図8J, I沈香木画箱J,I党網経表紙金銀
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