鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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梅渓月瀬勝景異園j刊行以前に響泉堂の銅版作品は,重版刊行の書などを除くと『康照御製耕織園j(明治16)まで見あたらず,発足当初の明治8年と併せてこれを除外するのが妥当である。これは,森琴石の事跡に照らしでも首肯される。すなわち明治17年(1884),素封家で知識人でもあった樋口三郎兵衛が道修町の居宅を提供して開校した浪華画学校に琴石は「支那画教員」として奉職したのである。年を逐い画学校が軌道に乗るにつれて多忙になったと推察され,明治22年(1889)には琴石らが発起して浪華学画会を設立している(注9)。もはや響泉堂の名は,時折り重版発行される書物に名を留めるばかりで新刊書には見られなくなり(注10),次第に出版界から姿を消していったのである。逆に,響泉堂が出版界に登場した明治8年から9年頃はいかなる年だったのであろう。そもそも,琴石が銅版画に出会い,その技術を習得したのはいつ,どこであったのか。西村貞は「森琴石の流停は明らかでない。停によると玄々堂とは別流であるといふことである」とし,島屋政ーは「若林春水堂とは特に懇意にして,若林氏より銅版術を撃ぴ云々」と述べている。しかし,春水堂また猶龍堂と号した若林長英(長柴にもつくる,1848-1892)が銅版画の技術を嚢中にしたのは,西村が引用する春水堂門人渡遺清太郎の報によると,明治初年北浜の富豪高池氏が東京から二代玄々堂松田緑山(1837-1903)を招鴨し,門生に銅石版を伝習せしめたその折であるという。緑山が紙幣寮の命で東京に呼ばれたのが明治2年(1869)の8月である。矢継ぎ早に紙幣・郵便切手・証券印紙などの製造を命ぜられ,一手専売の玄々堂は多忙を極めた。後には梅村翠山らも紙幣寮の命で各種銅版印刷に携わるが,両名ともに7年には紙幣寮を追われてしまう。しかし東京に留まった両名は,辛苦の末民間の銅石版業者として華々しく開業するのである。若林長英が大阪に招かれた緑山の指導を受けたとするなら,少なくとも明治3年以降であろうし,むしろ紙幣寮と手を切った明治7年(1874)以降と考えるほうが自然かも知れない。琴石が,たとえ明治6年東遊以前に長英の指導を受けていたとしても,ごく入門的な手ほどきだったとしか考えようがない。明治10年(1877)に刊行された『大阪府管内地誌墨Jには,響泉堂と春水堂(ならびに門人長景)が大阪名所図挿画を競作しているが(注11),調密な線の肥痩を巧みに使い分けて深い詰調をあらわし,しっとりとした情調を醸し出す響泉堂に比べると〔図ると,明治9年から16年(1876~1883)までの約八箇年が響泉堂の最盛期だったとす-44 -

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