鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
533/670

(1) ジャワのダンサー:1889年のパリ万国博覧会(3) カンボジアのダンサー:1906年のマルセイユ植民地博覧会(5) バレエ・リュスのニジンスキー19世紀後半のヨーロッパでは,大衆は様々なスペクタクルを供され,少なからぬ選かに多くの事柄を表現できるからだ(注1)。上記は,1914年の『モンジュワ』誌に掲載された,Iダンスのフレスコ」というエッセイの一部である。これは,ロダンのダンスに関する総体的批評と受け取ることができる。なぜならば,この中でロダンはダンスに対する過去と現在の批評の推移を示すとともに,Iあらゆる芸術の中でダンスを最高位に見なす」自らの見解の起因となったのがアジアのダンスだと表明しているからである。択の自由を有していた。例えばフランスでは,シャユーやカンカンのように,民族的なダンスのみならず,I近代のギリシアやエジプト,インドゃあるいは日本を含む,距離や空間,時間を遥かに隔てるオリエント」を劇場やミュージック・ホール,大通りで発見する機会があった(注2)。しかし,演劇やオペラの分野では,オリエント主題の演目を西欧人が演じる場合が多かった。よって,オリエントの人々による本物のオリエントのスベクタクルを目にするには,万国博覧会に出品された植民地の展示場や植民地博覧会を主たる場とした。植民地博覧会の起源は,1550年にルーアンの商人たちがアンリ2世とカトリーヌ・ド・メデイシスに,カリブの原住民,外来の産物,西インド諸島固有の動物と風景画を献呈したことに求められるという(注3)。それは,国家の威容を国内外に表明する絶好の機会として,19世紀前半に発展した。ロダンとオリエントのパフォーミング・アーツとの出会いも,ニジンスキーの場合を除いて,こうした博覧会が舞台となった。以下,クロノロジーに従って,箇条書きにしてみる。(2) 日本の女優・貞奴:1900年のパリ万国博覧会(4) 日本の女優・花子:1906年のマルセイユ植民地博覧会このように,1889年のパリ万国博覧会から1906年のマルセイユ植民地博覧会まで,ロダンとオリエントのスベクタクル・アーツとの出会いは散発的に続いた。それ以後も,パリを席捲したバレエ・リュスとの出会いがあり,更に1913年には「アルス・アジアテイカ』誌に「シヴァのダンスjの題目で,マドラス博物館の彫刻についての解-524-

元のページ  ../index.html#533

このブックを見る