1900年のパリ万国博覧会に併せて,ロダンはアルマ広場で大規模な個展を開催した。実物を前にしてスケッチしたロダンの作品は,対象の性質に忠実であったとも言えよう。この批評から推察されるように,ひとつの像の中に連続したムーヴマンを表現することを活動の初期から目的としてきた芸術家は,ここに新たなモデルを得て,その芸術意図と矛盾しない,オリエントのパフォーミング・アーツという時代の特異な趣味を反映した作品を制作し始めた。(2) 日本の女優・貞奴:1900年のパリ万国博覧会この記念碑的な博覧会の話題をさらったのは,日本の女優・貞奴であった。この年のロダンと貞奴との避遁を伝える資料は現在のところ見つかっていないし,また作品も残されていない。しかし,プラハの批評家ホフパウアーに,1先の万博では,芸術的表明の最たるものがジャワのダンサーだ、ったように,今の万博の呼び物は貞奴と日本の劇場の一団だ」と語り(注7),シ、ユデイト・クラデルとも貞奴に関する対話を交わしていることから,彼女の演技を見た可能性は非常に高い。この頃のロダンには,オリエント,特に日本の影響が見て取れる。それは,周囲のジャホ。ニザ、ンとの接触・交流やそのコレクション鑑賞,さらにロダン自身が収集した美術品に依るものだ、った。1887年と翌年のゴンクールの日記には,浮世絵版画に強烈な印象を受けたロダンの様子が記されている。1890年代には,カミーユ・ピサロらとともに,しばしば浮世絵版画展を訪れた。エジプトやエトルスク,インド,日本,中国,古代ギリシアから中世まで,幅広い分野に及ぶ工芸や版画のコレクションは,同じく1890年代に始まった。これらは,ロダンの制作の着想源となったが,特に浮世絵からの影響は,20世紀を少し遡る頃ロダンの素描様式に変化をもたらした。ロジ、ェ・マルクスは,11896年夏ころの経験のないモデルを使った試みのデッサンのシリーズJを「線の科学jと評し,そうした「裸婦のスナップショットjが「手早い線描Jや「輪郭線の囲みjという特質を有する点から,1日本の木版との類似Jを指摘した(注8)。ジ、ユドランによれば,1ヴォリュームを囲み,日本の浮世絵を想起させる輪郭線の新しい用法は,1900年にはまだ知られておらず,その時代としては全く無視されてしまうような省略法」だ、った(注9)。以後,こうしたスタイルに驚いた批評家らの,ロダン6 )。526
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