が参照した芸術の系譜,すなわちインドやエジプト,日本などのオリエントや古代ギリシアの技にロダンをなぞらえた批評は複数見出される。ムーヴマンを定着させるという追求が,モデルから目を離さずに動きの本質を描出する独自の描画方式を生み出したのだが,そこに至るプロセスに,日本の浮世絵を始めとするオリエントの美術形式が深く関与していたと言えよう。(3) カンボジアのダンサーこの折にパフォーマンスを披露したのは,ラオスの歌手とダンサー,コーチ・シナ(筆者注:現ベトナム南部)の音楽家,そしてカンボジアのダンサーであった。特に,シゾワット王率いるカンボジアの王立バレエ団は,7月10日にパリ郊外のブーローニュ野外劇場プレ・カトランで公演した後にマルセイユ入りし,その姿は多くの新聞や雑誌に取り上げられた。勿論全てのプレスが好意的だった訳ではなく,パリでの公演には少数の人々のみが招かれたことから,r彼女たちの極東の宗教に,フランス人の大部分は魅了されなかった」とする報道があった一方で(注10),rパリでは,実際異国的な博覧会への懐疑的態度にもかかわらず,カンボジアの若い娘たちは例外とされた」というように,彼女たちの来仏を成功と取る報道もあった(注11)。植民地博覧会を総括した『報告書概要Jを見ると,カンボジアのダンサーについては,次のように特記している。シゾワット王のバレエ団の来仏は実際物珍しく,フランスでは全く新しかった。我々の博覧会は,芸術と伝統が感動的な印象を創造し,また我々の目に極東の国々の存在を呼び覚ますために結びついたスベクタクルの走りだった。我々にとって,極東の威光は常に神話的な起源に漂う神秘の魅力を持っている(注12)。上記の引用からは,植民地たる極東の神秘性を彊い,同時に植民地博覧会の正当性を主張するという,オリエンタリズム特有の性格が伺われるが,この点についてはここでは扱わない。ところで,パリでカンボジアのダンサーの公演に感銘を受けたロダンは,王や彼女たちにポーズしてもらうわずかな時間を得た後,一団を追ってマルセイユに赴いた。先の植民地博覧会の『報告書概要』は,博覧会の来訪者として,ギメ美術館の館長に続いて,彫刻家はただ一人ロダンの名を掲載している。ロダンのカン1906年4月15日から11月18日まで,マルセイユで国家植民地博覧会が開催された。-527-
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