鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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ボジアのダンサーへの傾倒は,彼のデッサンとともに雑誌の紙面を飾るほどだった(注目)。これは,植民地博覧会というトピックと,当時フランスを代表する彫刻家としてのロダンの高い知名度が結びついたからであろう。ロダンを魅了したダンスは,Iインドに由来し,バラモン教を奉じる高い宗教性,伝統に忠実な技」であり,それは「しなやかさ,腕や足の波打つ動き,巧みな転移jといった運動を有していた(注14)0 7月15日付けの『プテイ・マルセイエーズ』紙は,ロダンが「カンボジアとラオスのダンサーの特別な習作を行なった」と報じているが(注15),作品として現存し,特定されているのは,カンボジアのダンサーを描いたデッサン・水彩画のみで、ある。ジョルジュ・ボワの聞き書きによれば,ロダンには「彼女たちが十字架のように腕を広げた時,肩甲骨を通って一方の腕からもう一方の腕へとくねってゆく動きは,未だかつて見たことのない,極東に特有の動きのように思われ」た(注16)C図2J。カンボジアを描いた筆致は,以前のジャワのものに比べて自由に動き,非常に素早く,滑らかな勢いをもって描かれ,一枚の紙葉の中に,一人の人物の連続したムーヴマンと動きのヴァリエーションを把握しようと試みた作品もある〔図3J。また,静止描からずらして塗布された水彩によって,ヴォリュームや空間,運動を表現しており,これら水彩画のシリーズは,ロダンの素描群の中でも例外的で群を抜いた仕上がりになっている。これらは1907年にベルネーム・ジュヌ画廊での素描展に出品され,以下のようなリルケからの象徴的ともいえる讃辞を浴びた。あなたの手段は,18世紀とギリシアを介して,東洋の決定的な身振りに触れ,魂の動きの聖なるエクリチュールに言及しています。それは,至高の,そして従順な肉体から重力を取り除いています(注17)。(4) 日本の女優・花子,(5) ニジンスキーさて,カンボジアのダンサーをデッサンするために,マルセイユを訪問したロダンは,日本の女優・花子と運命的な出会いをする。花子の死の演技に魅せられたロダンは,彼女をモデルに請い,1907年から12年頃までの聞に,約30点のデッサン,58点の彫刻作品を制作した。制作の経緯等については,他所ですでに述べたため,ここでは略する(注18)。花子をモデルにしたデッサンは,わずかな頭部や着衣の全身像を除いて,そのほとんどが裸体で,踊りの所作の一瞬を速筆で捉えた素描である〔図4J。黒-528-

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