鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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注スキーを表しながらも,静的な様子をたたえた他作家の作品と比較すれば,明らかである。ここに,<花子〉からつながる抽象化への展開が示され,ロダンのモダニティが提示される。しかし,ロダンの場合には完全な人物抽象には至らず,むしろ結果的にモデルを特定できる要素が残存している点に,オリエントのモデルを彫像化した際の特質が看取できるように思われる。これは,アクロパット・ダンサーをモデルにした作品が,匿名性を帯びているのとは対照的である〔図7J。おわりにさてこれまで,オリエントのコレクションやモデルとの接触・交流が,晩年のロダンの素描・彫刻双方における様々な様式の変化の動因となったことを考察してきた。晩年のロダンほど,オリエントのモデルを多用した作家は恐らくいない。彼らは,動きを捉えるという自己の芸術実現のためのモデルであった。オリエントのモデルを対象とした作品は,いずれも公的な注文制作ではなく,ロダンの私的で自由な芸術の発露であり,結果として彼の近代性を担う作品群となったが,古代ギリシア,ローマからゴシック,ルネサンスに至る過去の芸術の系譜を常に意識してきた作家にとっては,そこから逸脱する自覚は毛頭なく,よって作品は独自の位置を占めている。自著『フランスのカテドラル』の中で,時間と空聞を超越してあらゆる傑作の中に共通して見出せる「本質的条件」とは,思想としての「伝統的,宗教的感情」であり,そのもとに「人聞を表現した最高傑作」には,東西の別がないとロダンは述べている(注20)。残された作品は様々に語るものの,作家の意識の中では東西の両洋は芸術の名の下に等しく統合されていた。今回の報告において,ロダンがオリエントのパフォーミング・アーツを受容した過程と,ロダンの芸術創造の中でのその意味についての考察は完了する。同時代,すなわち1890年代から1920年代頃までのフランスにおける身体表現の東西交流については,今後の研究としたい。(1) RODIN, Auguste.,

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