鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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が1860年代前後の若い画家たちにとっていかに重要で、あったかということは,ルノるのを妨げるためにあらゆることをするのが彼の義務だと信じていると宣言しました。J(注3)。『かささぎ』がサロンで落選した真因はどこにあったのだろう。それを究明する上で,このパジルの言葉は示唆深いものを含んでいる。雪が織りなす青い影の表現が当時は.思いもよらない新しいイメージだったので,理解されなかったのか。あるいはなぐり描きに近い粗い筆触がアカデミックな審査員に受け入れられなかったのだろうか。ジェロームのような画家が全力で阻止しなければならないほどそれは危険なものだったのか。今日でも先駆性が認められている作品であるだけに,サロンに拒否された理由についてはこれまで自明のこととして片づけられていたように思う。しかし,青い影を全体の基調色とした表現は,西洋絵画における明暗法の転回点としてあらためて考察する必要があるだろう。また,印象派排斥の急先鋒であったジエロームの「真の憎しみjが何に向けられたものであるかを明らかにすることで,印象派が当時の画壇につきつけた根源的な問題も見えてくるのではないだろうか。印象派の絵画改革は,新しく影の色彩を発見したことに始まるといっても過言ではない。そもそも,風景をアトリエの中ではなく,自然そのものを前にして描くことは,既にパルピゾン派の世代の画家たちが実践し始めていた。モネもその例にならって,fオンフルールのパヴオール通りj[図2Jという作品を描いている。真昼の町並みにくっきりとした影が地面に落ち,光と影のコントラストが明快である。現実に目撃しているという臨場感,描いている時間の感覚が影によって表現されている。影の問題ワールやピサロの証言からも類推される。ルノワールはブーローニュの森でデイアズと出会った時に,デイアズから「なぜそんなに黒い絵を描くのか」と質問され,r葉の影にも光があたっている。」という教えを受けた(注4)。慣習的な明暗法ではなく,自然の中の光と影の複雑な交錯をまず観察することの大切さに気付かされたエピソードである。ピサロはコローから明暗の調子の重要さについて助言を受けるなど,私的な弟子として親交していたが,パリ・コミューンの災禍を逃れてロンドンに渡った時,特にターナーに関心をもって作品を研究している。そして,ターナーが影の分析を理解していないという結論を得るにいたっている(注5)。このように,先達の経験から2 印象派の影の分析536

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