たかな奥行きが正当に評価されていない傾向がある。モネの〈かささぎ〉という作品の画期的な点は,一つには,このように白い雪の上に生じた色彩のトーンによる空間表現に成功したことにあった。それが,当時のアカデミックな審査員たちの目には極めて不快な作品と映ったのだろう。特に完壁に写実主義的な仕上げを特徴とするジャン=レオン・ジェロームはこの作品がサロンから落選するように直接仕向けた人物だといわれている。ジェロームという画家自身の芸術については,ジェロームに関する現在のあまり高いとはいえない美術史上の位置づけを反映してか,ステレオタイプ化したものが流布している。何の感情もなく,完壁に冷たく仕上げられたリアリズムである,と(注9)。また,その反印象派的な言動についても,多数存在した印象派批判の嵐の一つ以上には考えられてはいない。1869年のサロンだけでなく,マネの没後回顧展が美術学校で開催されようとした時にもジエロームは反対し,また,カイユボットが国家にコレクションを遺贈しようとした時にも猛反対している,というように一貫して印象派を攻撃する態度をとっている(注10)。ジ、エロームのこの前衛絵画排斥運動は今や近代絵画史上ではある種ユーモラスな語りぐさと化してしまっている。筆触の点で対照的なこの新旧両者の様式を対比し,その嫌悪を当然のものと解釈するからである。しかし,ここまで徹底した排斥ぶりは,その奥に更に根深い原因が存在していたことを示唆しているように思われる。彼がここまで印象派の台頭を許せなかった本質的な理由が実は他にもあったのではないか。ジェロームが前年の1868年にサロンに出品した2点の作品は賛否両論の物議を醸した。『ゴルゴタj(図4J ~ネイ元帥の死Jがそれである。ここで注目したいのは,前者の方である。エルサレムの町を見下ろすゴルゴタの丘上で行われたキリストの楳刑の場面を描いているのだが,右下の地面には三本の十字架の影のみが描かれていて,キリスト自身は画面の外に存在する位置関係であるため,画中にその姿は見えない。ものの影のみを描き,対象そのものは画面の枠で切り取ってしまう,という後にピサロなどが行った新しい手法を先駆けて用いていることがわかる。当時の批評家たちは,このことに戸惑い,賞賛と抗議が相半ばしている。抗議とは宗教団体から,神への冒涜ではないかとの主旨で寄せられたものである。倫理的な意味や主題解釈という視点からの批評であった。後に画家自身はこのような大胆なキリスト礁刑図を試みたこ3 ジエロームの印象派批判538
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