3.響泉堂・森琴石の主な銅版作品刊行とは思えない。つまり,琴石東遊の頃の東都銅版画界を賑わしたのは,慶岸堂一派の『輿地誌略Jであったろうこと想像に難くないのである(注13)。琴石が翠山の銅版技術を学んだとすれば一層タイムリーであるが,当時は一家の秘伝ともいうべき銅版術を一介の東遊墨客に伝授したかどうか疑問である。ただ変化に乏しい線の粗密やクロスハッチで平坦な版画面を作る玄々堂系の作に比べ腐蝕の途中で何度も防蝕剤を塗って棋の肥痩に変化をつけ,また白く抜くなどの複雑な工程を,ニュアンスに富む版画面に表現するのが,明治初年の慶岸堂系銅版画の特色とするならば〔図4J, 琴石の優れた作に見る特色はまさにそれであり,この観点からするとむしろ慶岸堂系に近いということができる。琴石所錆銅版作品が,おおむね書物であることは先に述べた。それは,南画家琴石としての著書である画法書・画手本のほか,地図と教育的出版物の附地図,翻訳書の挿画模刻,書物挿画の名所図,さらに需めに応じての書物デザインまで多岐にわたっている。これらは性格が重複していて明瞭に区分できるものではないが,便宜的に分類してそれぞれの作風展開を逐ってみる。A.地図/絵図明治8年(1876)の『朝鮮圏全国jr永田氏改正暗射地球語圏』が最も早い作例である。前者は当時としてはごく一般的な地図,後者は一辺に数カ所掛緒が付いているから学校で掛図として用いられたものであろう。いわゆる「ケノリを用いた地図である。地形の高低変化をあらわすケパの手法は,欧州では18世紀の中葉から用いられたが,日本においては江戸後期の名高い伊能図も山の表現は絵図風なものであった。その伊能特別小図をケパ式の表現に替えて,明治4年『大日本地図Jを編纂したのが川上冬崖であった。同じ川上が原図(模画)を描いたのが,明治3年から刊行された『輿地誌略』であり,同書に含まれる地図すべてがケパ式であることを鑑みると,このあたりが日本の近代地図の嘱矢といえるのかも知れない(注14)。ただ,琴石がつぎつぎと銅錆した『掌中大日本地圃.1r大日本府県裁判管轄一覧園J(明治9),r訂正銅錆大日本園園.1r新錆大日本海陸全国.1r大日本九州一覧之園.1r大日本四国一覧之園j(明治10)などは,いずれもケパを用いるとはいえ山頂や尾根を一重ないし二重・三重に浅く浮き上がらせるのみで,大地の起伏のダイナミックな表現というには程遠い。いず-46
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