鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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~548~ 経糸の太さが0.1O~0.12~0.13mm,緯糸がO.15~0. 19~0. 20mm,それぞれの密度が第3節伏義女嫡図(龍谷大学所蔵分+新彊文物考古研究所所蔵分)できず図版公表もモノクロのみと考えられる。これらが接合することは,1993年11月5日午後,龍谷大学図書館の田中利生氏が後者の断片を示して参考意見を求められた際に,別室陳列中の前者と合わせて確認している。ただし,当時は断片に専門家の意見が付されていたことと,折られていない展開状態の図版が未公表だ、ったため,この確認成果を明瞭に示すことができなかった。その後に上記の調査結果と展開したモノクロ図版が公表されたため,ここに接合案・構図復元案(前者部分カラー・後者部分モノクロ)を示すことができるようになった〔図1J。伏義女嫡図全体としてはわずかな追加でしかないが,幸いに上記調査の成果,すなわち断片を縦長に置いた位置での55. 0~55. 3~57. 5/cm, 30. 0~33. 5~35. O/cm (以上,文献20の上掲頁)という数値が,この伏義女嫡図の中央の絹全体の大体の数値として認識できるという,墓葬美術資料の材質特搬に関する貴重な追加情報となる。第2節伏義女鍋図(旅順博物館所蔵分)1943年刊行の『旅順博物館園録.](文献1の図版65)に女鍋部分のカラーと日輪・三足烏部分のモノクロが公表され,さらに1992年12月12日から翌年にかけて京都市その他で展覧された伏義女嫡図(文献15の102頁図版47)については,その断片接合案・構図復元案を1993年に示したが(文献17の63頁),さらに各地巡回中に再度確認して日輪中の三足烏の方向を修正した案を示しておいた(文献18の図版I資9'および文献24のA-2③, )。この図は再度来日し2002年4月16日から守山市で展示されているが,その図録では現状の図版の他に新たに復元しなおした図版が掲載された(}IJ頁に丈献28の112頁図版A=[図2-AJ,図版B=[図2-BJ)。日輪の直径が現位置の縦横でわずかに異なること,伏義女嫡図日輪中の三足烏の足は,問題の1点を除外すると,現在のところ頭の上下にかかわらず左に置かれた例(計4例)ばかりであること(文献18,文献24参照),スカートの縞の残欠と考えられる細長い小断片(2193,2192, 2195の下)における経糸と緯糸の方向等々から,現在も上記に示した修正案で誤りないと考えられる。ここに同案を再掲する次第である〔図2-cJ。龍谷大学所蔵の,日輪周辺下音防、ら伏義と女嫡の頭部,胸までで切断されている紺地の断片は,確認できる限りではおそらく1954年10月3日に初めて展示・公表されたのであろう(文献2の(七)7)。この時の陳列物は那波利貞氏によって「腰部以上しか

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