ない破幅J(文献3の2頁)と記され,さらに同氏の増補論文では「第一J(文献7の原色図版第1)と連動させて「腰部以下は訣損亡扶J(文献8の299頁)とされており,他に該当するものはない。この一幅は1-J (文献11のPl.1 &195~ 197頁)とされたり,近年までIDJ(例えば文献22の26頁図12)とされることもあった。その作品と酷似した画風のものがあることを筆者は先に指摘しておいた(文献23の159頁図226)。筆者は本調査研究の申請書類中で,2000年1月に介在者の協力を得てこの龍谷大学所蔵分の周囲に繋がるべき大断片が確認されたことを書いたが,その大断片はウルムチの新彊文物考古研究所所蔵分である。接合関係の公表は日本側から公表することを抑えたため中国側で物品番号(72TAM225: 15)も含め文中で扱われ(文献25の84,124頁,128頁注(1)),筆者もその言及を紹介し(文献26の163頁),後はその図版公表が待たれるばかりとなっていた。2001年8月20日,北京で著述家の訪問を受けて探検隊関係の情報を提供し,帰国後も資料を送付したが,その著述家は,要の個所が欠けていてウルムチでは公表価値が不定だ、った当該断片の写真を手にすることとなり,その著書は2002年1月の奥付で刊行されたことになっているが,4月下旬に確認することができた。この書物によって鮮明とは言えないが大断片のモノクロ図版が初めて公表されたのである(文献27の139頁)0筆者が介在者経由で把握している法量の提示はここでは控えるが,図版に見える最近の配置・裏打情況には若干のミスがあり,また撮影にも少々の歪みがあるようなので,以下に龍谷大学所蔵分をカラーで,上掲書掲載分に修正を加えたものをモノクロで提示し,この一帽に関する接合案・構図復元案としたい〔図3J。修正は,右上断片と下部断片を龍谷大学所蔵分が入るように上下の聞をやや離したこと,上部斜線部分にあった断片をやや斜めに下げて龍谷大学所蔵分に接するようにしたこと,真正面から少し傾いた撮影による図版を少々正したことである。第l節彩画紙片(旅}I慎博物館所蔵分)らの文書にさらに関連する可能性もある文書若干も加え,より鮮明なモノクロ図版が第3章彩画紙片・関係丈書の構図・原形輪郭復元1988年8月,北京において在旅順の文書が展覧され,その中に片面が彩画紙片と考えられる吐魯番の墓葬出土文舎が複数含まれていた(文献13の図78~84)。後に,それ公表され(丈献16の図22~29),2002年4月16日からの佐川美術館の出陳では旅順で20.14日と20.1415之二とされている丈書([図4-A)のカラー公表部分参照)とその裏549
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