鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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第3節彩画紙片関係文書(龍谷大学所蔵分)と上掲の彩画紙片でも「蚊竜(ミズチ)Jとして解説を加えている(文献28の114~115頁図版59)。これ第2節彩画紙片(興善寺所蔵分)No.11038 (文献19の横54頁)となっている。これについては後述する。2002年5月1日の紙面に,本研究の報告提出期限の5月20日から,龍谷大学大宮図面の彩画,すなわち絵としては相対的に前部と後部として繋がるもの((図4-B]のカラー公表の「番号不明jを除く部分参照)を両面から確認できるように展示し,図録によって問題の彩画紙片のかなりの輪郭が判明した。しかし,文書として既公表でかつ裏面に彩画があることが確実で,さらに今回出陳のものに接合すると考えられるものがまだある。それは1988年(文献13の図84の右下),1993年にも示された20.1405之ーという文書である(文献16の45,113~ 114頁,図29の右下,[図4-A]のモノクロ公表部分参照)。これが出陳されなかったのは残念で、あるが,その一方で,香号未紹介で出陳された別の絵画断片(文献28の125頁図版66の左下)は,上記旅順分の彩画紙片に接続すると考えられる([図4-B]のカラー公表の「番号不明」部分参照)。いずれにしても文書の年代から,彩画は8世紀後半の貴重な墓葬美術資料ということになる。吐魯香の墓葬から得られた古文書・彩画を表裏とするもので,大谷探検隊員・興善寺の橘瑞超氏所蔵分をかつて調査した成果が公表されている。特に前節に関係するのが,熊谷宣夫氏によって「六聞元三十三年文書(735AD)Jとされ「表面に瑞烏或は龍の肢のつけ根に嘗る部分」とされたものである(文献6の31~32頁)。かつては「七天賓三年文書(744AD)J (文献6の32頁&挿図7)も橘氏所蔵時の調査成果があるが,こちらは現在は龍谷大学の所蔵となり古番号1-18,旧番号180,現在は橘資料としてその後上記の古文書の再度の判読テキストに加え,彩画紙片のモノクロ図版が上野アキ氏によってIIIaとして示されたが,それこそが彩画紙片としては前節の旅順博物館所蔵分と相接する関係となるものであろう(文献10の29頁&同頁挿図3,(図4-B] のモノクロ公表部分参照)。このような関係は,次節に扱う彩画紙片関係文書の龍谷大学所蔵分からも傍証されるが,いずれも2002年4月中旬以降,また5月上旬以降の情報環境において可能なこととなったのである。書館にて大谷探検隊の収集品展が開催されるとの記事が掲載され,併せて吐魯番出土の大谷文書の接合による「青龍」の再現がカラー図版で掲載され,また表の彩画(の一部)が旅順博物館所蔵分で佐川美術館にて陳列中との言及もあった(文献30の8面,550

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