鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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れも琴石自身の編になる明治10年刊の地図には,その代わりというか奇想を凝らしたものも見受けられる〔図5J。何にせよ,ケパの不十分は三角測量の不備を反映していたわけで,内務省地理局や兵部省による測量が本格化しはじめた10年代中葉になると,大阪府から刊行された『大阪府管内全国.1(明治14)のように,油絵でいうと100号大以上の巨大な地図全面を,きわめて桐密なケパが弧状に重なり合い,生きいきとした大地の脈動を伝えるようになる。なお,この地図の製図は大阪府御用掛多国秋香ほかとなっていて,響泉堂は彫版のみである。つぎに,掛図である『永田氏改正暗射地球語圏』のほか,r小皐地園用法.1(明治9,10), r寓園地誌署地園.1r日本地誌暑阿国.1r小挙用日本地圃.1(明治10)など,一連のいわゆるボール表紙本教材地図がある。いずれも大判地図の部分縮図を集めた冊子で内容に変わったところはないが表紙や扉に絵を附しているのが注目される。とりわけ,r小皐地園用法JI大日本之部」と『小事用日本地園』に附された日本風景の鳥撒図は興味深い。前者は右手に大きく富士山を,左手にちょうどこの頃噴火していた大島の三原山らしき山を描くが,現実にこのような見え方があるとは思えず,かなり観念的に火山列島日本の景観を表現する。後者は,東方から大阪市街と神戸方面を見渡したもので,手前の造幣局や江之子島大阪府庁舎,そして大阪神戸聞の汽車を,規矩を度外視して大きく収めたやはり観念的な図である。銅版鳥搬図はすでに亜欧堂田善が試みたものであり,浮世絵では幕末期の玉蘭斎貞秀が名高いが,琴石のわずか数センチ角の精轍な鳥蹴図は,南画家のやや主観的な新しい風景観を垣間見させるとともに,r輿地誌略.15巻に大村鶴峯が挿入したシェルブールやマルセイユの銅版鳥蹴図をも連想させる〔図4J。最後に,r大阪府管下細見新園.1(明治9),r改正大阪匿分細見圃.1(明治10),r奈良名所濁案内.1(明治12)などの市街図があるO元来,道と街区の退屈な幾何学図形にしかならない市街図に,琴石は主要建造物の絵をコラージ‘ュのように配置して,絵図的な面白さを出している〔図6J。代表的な『改正大阪直分細見園Jでは,原図者蔀屋仙蔵に対し改図者森琴石となっており,造幣局をはじめとして要所に描き加えた絵がその「改図」の内容だったと思われる。明治10年頃,あたかも地図製作者のようであった琴石の画家としての欝々たる表現欲が感ぜられるが,それがこれまで、培ってきた南面的なものに留まらぬ,洋画的な表現であったことにも注意しておきたい。47

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