政治的芸術の論争盛んななか,かれらは別の方向を見出そうとした。政治性を回避する工房の姿勢は,日本現代美術史の少ない文献のなかで異色の「不在jとしてある(注ト・ザ・スカイ」展は,日本の前衛を封建主義的な政治制度へのレジスタンスとしてとらえたが,この政治的なナラティブでは実験工房を取り込めなかった。また国内では針生一郎も,実験工房は「形式上の突端的冒険jとして,社会主義レアリズムの対極に書き留め,詳細な考察はしていない(注5)。さらに,1980年代以降,日本固有の文脈から戦後美術史が歴史化される中,千葉成夫は「敗戦後の十年間は根本的には,欧米の美術とその動向を規範として設定してそれにならっていくという,戦前からの発想の枠組そのものはなんら改変することなく存続させていた」とする。彼のいう「具体・もの派・70年代作家群」という「唯一の正統」に実験工房の入る隙間はない(注しかし非政治性や西洋のモダニズムとの近似がこのグループの不在の原因ならば,この先入観は,受動的反映に終わらぬ芸術が,日本の正統という連続性・正嫡性の中にのみ発現するという排他主義を招く。通史的視野からは1955年から1960年が日本の前衛の転換期として捉えられることが多いが,これは55年体制の成立が,政治的自立以前に文化国家として復興をめざした日本において,観念のベールとしての文化と,政治的な意味でのナショナル・キャラクターという概念を交錯させはじめた時期に重なる。そして1956年の「戦後の終駕」が宣言され過去の歴史がニュートラル化して以来,戦後前衛を語る視点は文化と国家の複合体としてある日本という範曙のなかに留まっている。この現象を示唆するのが,国外へ紹介される日本文化の一端として美術を怖献したとき,セレクテイブに行われる文化交流の見えない構造から抜け落ちる,という実験工房の逆説的な意味での独自性である。つまり実験工房は「戦後JI日本」「美術」のどの文脈にも固定した状態で位置付けられない。〈成立の背景〉工房の造形メンバーとなる北代省三,福島秀子,山口勝弘は,1948年文化学院で行われた「モダンアート夏期講習会」で出会う(注7)0 1週間弱続いたこの会には,講師として阿部展也,江川和彦,岡本太郎らが参加した。北代らは彼の自宅で独自に研6 )。1951年の美術界を,実験工房メンバーの武満徹はこのように批判した。純粋芸術と4 )。国外で戦後日本美術史を総括的に紹介した1994-5年の「スクリーム・アゲンス
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