鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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究会を開始するが,その後岡本の誘いで「夜の会」に出席するようになる。そこでは花田清輝らの論客が,時代の断絶により解体された社会の回復の方法を模索していた(注8)。社会主義革命の必然性が感じられた当時,芸術の総合への意志は花田の評論にばかりでなく,美術研究会やグループの集合離散にも反映しており,北代宅の研究会も例外ではなかった。研究会はやがて「アヴアンギヤルド芸術研究会J(注9),その後は「世紀の会」に参加するが,集会が徐々に左傾化していくなか,後の実験工房メンバーは政治性への違和感を意識し,1950年4月に脱退するまでに,I概念のプラカード」に終わらぬ実践的な芸術の総合,という理想を形作っていった(注10)。1950年には,福島の弟和夫をとおして造形メンバーと秋山邦晴・湯浅譲二・武満・鈴木博義という音楽部門とが繋がり,内輪で現代音楽コンサート(メシアン・シェーンベルク・バルトーク・コープランド・パーンシュタイン等)を行ったり,芸術論からSF論までひろく興味を共有しながら,コラボレーションへの土台を固めていった(注11)。〈前衛の継承〉実験工房の活動は戦前のヨーロッパにおける前衛芸術の継承,展開,そして成果と考えられる(注12)。さらに,フォーマリスト的意味でのモダニズムに対峠するポストモダンとしてのインターメディアという動向へと舵を向けた,戦後日本最初の運動体である。このように工房を位置付けたとき,その活動に影響を与えたものとして,モホイ=ナジ・ラースローの芸術理論を挙げてみたい。まず実験工房との接点として,モホイやジョージ・ケベシュの著書を頻繁に紹介していた江川和彦がいる。彼は上述の北代宅の研究会で美術理論面の指導をした人物であり,1956年と57年の新宿風月堂における「実験工房メンバーによるサマー・エキシビジョンjでは,展示構成でコラボレートもしている。また,モホイによる著書,The New VisionやVisionin Motionは,山口勝弘自身が詳読していたばかりでなく,I夜の会jに提出された北代や山口の作品には,運動と時間を二次元上に表現するという試みが,モホイの提唱する動体のヴィジョンのコンセプトのキャンパス上で、の実験として表れている(注13)。さらに重要なのは,戦前からモホイ=ナジと交流し,実験工房を精神的に支えた瀧-570-

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