口修造である。2人の聞では,1937年のモホイ渡米直後から,rフォトタイムス』誌を通して写真作品や資料の交換が行なわれていた(注14)01940年同誌1月号で瀧口は,「従来のいわゆるパウハウス的」とは,機械主義的もしくは実用的デザインという一般概念であったとし,そのような活動はヨーロッパで、完結したものであり,今後はそのアメリカにおける展開に多くを学ぶだろうとしている(注15)。戦後,日米通信社に勤めた瀧口がモホイとの旧交を回復しよう考えたのは,このようなアメリカでの新しい造形概念の展開への期待があったからであろう。北代省三もまた,当時はパウハウスよりも,その新しい系統としてブラック・マウンテン・カレッジ(1933-1956)への興味を示していた(注16)。では,アメリカでの動向とは,ヨーロッパ時代とどう異なっていたのか。1947年シカゴで出版されたモホイのVisionin Motionの目的は概して次のような点にある。つまり,テクノロジーは,人聞社会における生産・所有・階級という基本構造を変革し,資本主義の政治領域では,経済的合理性として歓迎されるが,人間の精神的領域においては,象徴的利用,もしくは新しさへの憧僚としてのみ組み込まれる。この著書で彼は,アメリカにおける産業形態の政治・社会的側面に,人間の生物学的権利の確立をうったえ,それは新しいテクノロジーを視野に入れた造形と,生命そのもののありようとの融合において成されるとする(注17)0i龍口はこうした技術と「心理生理学的要求jとの結びつきをめざす実験を,アメリカにおけるパウハウスの展開の特徴とし,これを行き過ぎた産業技術的形態としての「アメリカニズムに対する自己批判の役割をつねにになっている」と分析する(注18)。こうした造形倫理・思想が,i龍口を経由して実験工房に継承されたとき,活動自体にそれはどう表明されたのか。まず\工房の正式なマニフェストではないが,北代の起草による第l回グループ展における主旨を確認しておく。趣旨芸術の諸種の分野を統合して在来の展覧会形式に見られなかった,異質の,芸術相互の有機的な結合を見出し,より生活に結び付いた,社会性のある新しい芸術形式の発展のために努力する一つの試金石として,本展覧会を開催する。[中略]またこの展覧会の他の特色としては在来の展覧会において殆ど考慮されていなかった,展示物の照明に多大の関心を払い,事情が許せば,機械的及び電気的な諸機構により,照明にも動きを与える予定である(注19)。インターメディアかっ社会性をもっ芸術を目指し,近代における美術館の枠組みを-571-
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