注(1) 浪華摘英編纂事務所編『浪華摘英』三島聴恵,1915年との弁別)といった点については十分に考究できなかった。しかし,明治10年代という時期において,質的にも量的にもこれだけ豊かな成果を響泉堂琴石の銅版画が持つことが明らかになったいま,つぎの機会にはぜひともこの諸問題に取り組んで、みたいと考える。(2) 近藤翠石編『森琴石翁遺墨帖』近藤翠石,1927年(3) r天給塾門人牒J(東京喜市F-j大学図書館蔵)には,r明治五年二月三日本両替町川端玉章Jr明治八年六月二日浅草新平右エ門町一番地荒木寛畝」と記されているが,森琴石,森熊などの名は見あたらない。(4) 明治15年5月14日,龍池会主催で上野公園内教育博物館観書室で行われた講演。同年10月,同会から『フェノロサ氏演述,大森惟中筆記美術異説全Jとして冊子が刊行された。(5) 西村貞『日本銅版董史』全国書房,1931年(1961年復刻版)(6) 島屋政一『日本版董変遺史』大阪出版社,1929年(7) r有馬の名宝蘇生と遊興の文化』神戸市立博物館,1998年(8) 森登「玄々堂と明治の銅版画J(町田市立国際版画美術館編『近代日本版画の諸相J所収)中央公論美術出版,1998年(9) 木村毅「浪華董皐校の顛末J(魚、澄惣五郎編『大阪文化史研究』所収)星野書庖,同最後に響泉堂の名が確認されるのは,明治45年5月に此村欽英堂から第二版が刊行された『新撰伊呂波韻大全j(三田村敬徳著)であり,初版(明治11)原本の銅版が凸版に製版覆刻されたものである。(11) これら競作大阪名所は,従来神戸市立博物館の池長コレクションでは一枚ものの「大阪名所」として扱われてきた。同平木政次「明治時代Jrエッチングj33号,1935年7月加)西村貞前掲書によると,江漢,田善以来の江戸系銅版画の伝統は幕末期には極端に衰微していたという。細々と命脈を保っていた銅版画が,明治の三大ベストセラーとも称され,何万部を刷ったか想像もできない『輿地誌略』の,細密な銅版1943年51
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