されている。『城南J(注3)には,安楽寿院古文書①,安楽寿院来由記及原要記②が翻刻されている。これらは重複する部分があり,相互の対校は寺誌研究の基盤となる。紙幅の都合上,ここでは個々の文書やその字句の対比は別稿を期するとして,包括的に見ると以下の点が指摘できる。安楽寿院寺中日記寺領等事(ア)(以下略記する場合,寺中日記と記す)の写しが表lのAであり,(ア)のすべてと,(イ)のごく一部が①に収録されている。しかし(ウ)は他の史料翻刻には含まれていない。そこでこれについてやや子細に才食言すしたい。2,真幡木庄正和二年実検田畠目録注進状案東京大学史料編纂所所蔵安楽寿院文書の(ウ)の真幡木庄正和二年実検田昌目録注進状案(以下略記する場合は注進状案と記す)は,正和2年(1313)に沙弥敬観が注進した安楽寿院領真幡木庄の田畠実検目録の案文である。巻子装で,十二紙からなり,継目裏に花押が押されている。この文書の内容は,まず冒頭に真幡木庄の惣員数「七十五町一段半二十一歩jが記され,次に他領散在仏神領と権門甲乙領の内訳と面積が記される。その後に,安楽寿院領分の用途別田畠面積とその所当が列記されている。散在入組型荘園として知られた真幡木庄の領有関係の全体像が判明すると共に,安楽寿院分の用途の内訳から,鎌倉時代後期の安楽寿院の堂舎,組織等を知ることのできる絶好の史料である。その分類を摘記すると〔表2Jのようになる。列記された項目の分類毎に田畠面積の合計が示されているが,その数値には大きな組舗がある。即ち一つの分類の中の各項目の面積を合計しても,当該分類の合計記載(注4)と一致しないのである。この事はこの文書に錯簡があることを示している。そういう観点で上記分類の配列を見ると内容的にも疑問点が浮かび上がる。例えば,安楽寿院の本御塔には保延5年(1139),新御塔には保元2年(1157)にそれぞれ禅衆が置かれ,鳥羽と美福門院の菩提を弔う仏事を執り行わせている。しかし上記一覧で明らかなように,本御塔と新御塔に対応して禅衆が記載されているわけで、はない。また分類によっては,例えば「安楽寿院分Jのように合計が示されていないものもある。これらの事実から,この注進状案は,現状では継目裏に花押が押されて,案文作成時の原形を保っているかに見えはするが,明らかに錯簡があって,現文書から正しく-591-
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