正和時点の真幡木庄と安楽寿院を復原することはできない事が判明する。錯簡の生じた原因は単純ではない。①本案文作成後,一度糊離れなどにより錯簡となったものを復原的に繋いだ,②本案文作成時点で,既にこの注進状の正文または案文の原本に錯簡があった,の二通りの可能性が想定される。紙継部分で内容が続かない部分はーヶ所あり,当該箇所は①の可能性がある。その他の錯簡と推定される部分は紙継とは一致せず,それらは②により生じたものと見られる。数値・内容・記載形式などを基に,若干の推定を加えて,錯簡が生ずる以前の状態に復原すると〔表3Jのようになる。このように復原しでもなお数値の翻酷が残るが,形式的にはほぼ整理され,安楽寿院と真幡木庄の社会経済的な全貌を把握することができることになる。3,鎌倉時代後期の安楽寿院真幡木庄正和二年実検田畠目録注進状案の「安楽寿院分」の項によれば,安楽寿院は真幡木庄内にあり,その中に「本堂・九体・平等王院・不動堂」の敷地が計上されている。草創期の安楽寿院に建てられた堂宇を検討すると,本堂は阿弥陀三尊を把る鳥羽東殿御堂に該当すると考えられる(注5)。別に九体堂と号した無量寿院があり,当初は新御堂と呼ばれた(注6)。平等王院は閤魔天堂とも号した(注7)。従って上記「九体jは,本堂とも平等王院とも別であり,正和2年時点で本堂・九体阿弥陀堂(蕪量寿院)・平等王院・不動堂の四棟の堂宇が現存したことになる。その建立年次を確認すると,本堂は保延3年(1137)に供養され,無量寿院は久安3年(1147)に供養(注8),平等王院は保延6年(1140),不動堂は久寿2年(1155)に建立されており(注9),いずれも鳥羽院政期に建てられたものが存続していたことになる。また,注進状案によれば,I本御塔分,同禅衆分,新御塔分,禅衆分」の項があって,本御塔と新御塔も現存していたことは確実である。これらの堂塔を運営する僧団としては,まず注進状案[供僧分」の項から,3人の供僧,2人の預,花摘がいたことが知られる。東京大学史料編纂所所蔵寺中日記(注10)によれば,保延5年の本御塔供養に際し大僧正覚猷に,後にこれに2人を加えた3人の僧が供僧とされ,本御塔外陣で長日供養法を行わせた。この供僧が正和の時点でも存続していたことになる。同史料には本御塔供僧が山門に付されたと記している。592
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