また,注進状案の本御塔分以下の項から本御塔・新御塔にそれぞれ6人の禅衆がいたことが知られる。禅衆に関してはやはり寺中日記に記載がある。本御塔については保延5年の供養の際,快豪・経融・尋宗・応寛・義源・陽遅の6名を題名僧に任じ,さらに同日法華三昧を修した際,彼ら以外に本御塔内障に入ることを禁じた。新御塔については,寺中日記に保元2年の供養の際,相然〈東寂房>,陽賀〈東喜見房>,源応〈西走井>,舜仁〈横理乗房>,勝朝〈横水本>,兼慶〈西常泉房〉の六口の禅衆が請ぜられたのに始まる。各6人の禅衆は三味僧として鳥羽上皇・近衛天皇の遺骨に供奉する役を担った。その制は正和の時点でも存続し,各禅僧は一和尚から六和尚の称を有し,固有の坊号を有していた。坊敷地は真幡木庄内にあったが,おそらく安楽寿院内にあって,近世に再興された安楽寿院の十二坊の立地形態(注11)に類似した状況を示していたのではなかろうか。また,寺中日記中の庄々事の項と保延五年鳥羽院庁下文によれば,供僧も禅衆も給田は一口あたりー町五段と定められており,正和時点においても約半数はそれを保持していた。なお,新御塔禅衆僧名の細註の東・西・横は,叡山の東塔・西塔・横川を示すと見られるから,天台僧が任ぜられていた。このことは当初埋納が予定されていた美福門院が高野山に納骨された際,それに抗議した新御塔三味僧が天台僧であると記す山塊記の記事(永暦元年12月6日条)によっても確認される。本御塔の禅衆経融も叡山根本法華堂の禅衆であったから,安楽寿院禅衆はすべて天台僧であったと推定される。先にも述べたように,安楽寿院は真幡木庄内にあった。その真幡木庄内の土地がすべて記されている本史料から見るならば,正和時点の安楽寿院には供僧3人,本御塔・新御塔の禅衆計12人と,俗人と推定される若干数の預・花摘がいたにすぎない。院政期の鳥羽離宮内の寺院に複数存在したと推定されている鳥羽壇所(注12)には,覚猷・範俊など著名な天台僧・真言僧が半恒常的に常駐していた。彼らは壇所での密教修法遂行のため多数の伴僧を伴っていたから,院政期の安楽寿院には多数の僧が活動していたはずであるが,彼らが安楽寿院の恒常的僧団組織を形成していたわけではない。安楽寿院の僧団組織を明確に示す史料はないが,自律的な僧団組織は当初より形成されていなかったのではなかろうか。仁治3年(1242)には鳥羽勝光明院が焼亡し(百錬抄),安楽寿院法華堂が永仁4年(1296)に焼亡している。このような急速な衰微も,正和頃にわずかな供僧と三昧僧しかいないことも,当初よりの寺院組織の不-593-
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