鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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注(1) ここでは1600年以前の文書としておく。(2) r京都府史蹟勝地調査会報告第六冊J京都府1925年(3) 城南文化研究会編『城南j1967年6月備のしからしめた事態といえよう。この点,やはり僧団組織が充分に形成されなかった白河の六勝寺と共通する性格といえよう。一方,注進状案の記載に,大般若田・閏月仏聖田・御盆供固などがあり,大般若経の転読,盆供や日常的な常燈・仏供の奉献が行われていたことが知られるが,その他の仏事・法会の実態は明らかでない。他の荘園の所当が充てられていた可能性があるが,いまはこのことを示す史料は見出していない。安楽寿院古文書①に収められた保か記されていない。従って,安楽寿院の法会もまた,院政期より鳥羽・近衛の菩提を弔うものしか設定されておらず,僧団組織の未成熟と呼応している。鳥羽殿にはいくつかの寺院が設けられたが,とりわけ安楽寿院は2人の王の追善の場としての機能に特化した施設であった。そしてその機能に関しては鎌倉後期も,さらには近世に至るまでも忠実に保持されたと言うことができる。まとめ以上,安楽寿院関係の文書調査をふまえて,主に鎌倉時代後期の安楽寿院の組織と活動を復原したが,それはすでに院政期の出発段階で規定された性格を忠実に継承したものであった。中世後期の安楽寿院は衰退が著しく,慶長年間に安楽寿院が再興された際は,この伝統をふまえて十二坊を置いて,両塔を紀ることにしたが,これもまた中世前期の状況に倣ったものであった。中世末から近世にかけての転生については,安楽寿院所蔵近世文書の整理と検討が必要であり,今後継続的にこれを行ってゆきたい。また注進状案には,I諸給分」の中に公文所・沙汰人の屋敷や,番匠などの諸職人の給分が含まれている。注進状案の作成された正和2年には後伏見上皇の行幸があり,離宮の維持管理は行われていたようである。公文所・沙汰人らは管理にあたっていたと推定されるが,荘園経営の問題とも併せてこの点は今後の課題としたい。(4) I巳上口町口反口歩」と記される。元3年(1158)の年中相折井支配事には,年中行事としての法会は二季彼岸御機法し594

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