スキーはその後ほどなくナチス・ドイツを追われることになる。またパノフスキーと同じくドイツを逃れたN.ベヴスナーは,rラスキンとヴィオレ・ル・デユク:ゴシック建築評価における英国性とフランス性.1(1969年)(注12)において英仏のゴシック復興の性格の相違を浮き彫りにしているにもかかわらず,ドイツのそれには触れていない。ベヴスナーの出身地ドイツにおいてイギリスよりさらにファナティックにゴシックが賛美されていたことを思えば,それは意図的な無視であったと考えるのが自然だろう。ゴシック・リヴァイヴァルはイギリスやドイツだけの現象ではなかった。かつて中世ゴシックの舞台となった地域ではそれぞれ温度差はあるものの,19世紀のなかばまでにはゴシックの再評価が行われていた。にもかかわらずそれについての研究は長いあいだ国境という限界から踏み出そうとはしなかった。ヨーロッパ全体を視野に入れてこの現象を論じた最初の包括的研究を行ったのは,G.ゲルマンである(注13)。中世ゴシックの中心舞台となった国々でもなく,リヴァイヴァルの中心地でもないスイスのパーゼ、ル大学で教鞭をとるゲルマンによって国境を越えた研究がなされたのは偶然で、はあるまい。ここで改めてゴシック・リヴァイヴァル研究史を見渡してみると,中世ゴシックの本場であったはずのフランスでは英独に比べて文献が圧倒的に少ないことに気づく(注14)。そもそもフランスではリヴァイヴァル現象そのものが見えにくいのである。ドイツでは何事につけゲーテが引き合いに出されるのだが,ここでもそのゲーテの助けを借りょう。よく知られているように,ゲーテの著作の中で最初に公刊された『ドイツ建築について.1(1772年)はシュトラースブルク大聖堂(仏ストラスブール)のゴシック建築をドイツ固有の様式として称賛するものであった(注15)。ゲーテは「これぞドイツの建築,われらが建築だ」と言う。そしてイタリアの芸術はギリシアからの借り物であり,フランスはさらにそれを模倣したに過ぎないと主張する。たとえばこう書く。「趣味に欠ける,とイタリア人は言いながら通りすぎる。幼稚だ!フランス人はその口真似をして,勝ち誇ったようにギリシア風の小函をはじいてみせる。軽蔑するのもよいが,では君たちは何をしたというのか?J (注16)。およそ半世紀ののちにゲーテは『ドイツの建築について.1(1823年)(注17)という同じ題名の文章を書いている。こちらはあまり引用されないが,ゲーテの態度はかなり変化している。全体にイタリアやフランスに対する反発の感情は消え去り,ナショナリスティックな表現も-603-
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