ほとんど見られない。ゲーテはゴシックを冷静な眼で見るようになった。しかしそれとは逆に,ゲーテによれば,今や老若男女を問わず大勢の人々がゴシックに心を奪われているばかりか,実際の建築もこの様式で建てられるようになったという(注18)。18世紀末から19世紀はじめにかけてゴシックに関して大きな趣味の転換があったことをこの二つの文章からうかがい知ることができるが,問題はそのことではない。中世ゴシックの本場であったはずのフランスでリヴァイヴァル運動に盛り上がりが欠けた理由のひとつは,カトリック教会の状況のせいかもしれない(注19)。またフランスではナポレオンという個人がナショナル・シンボルとなりえたことも関係するだろう。しかしそれよりも深い理由は,西ヨーロッパ世界におけるフランスの立場のためであろう。ルネサンス華やかなりし時代は去り,イタリアは小国分裂の状況のもとで衰退していく。これに代わって古典文化を継承する後継者こそフランスであるという意識は,おそらく今も変わらぬフランスの文化的アイデンテイティとなっている。ゲーテが指摘しているのもそのことである。しかしたとえ「古典主義の国フランスJ,IGotikの国ドイツjという分類をしたところで,19世紀以降の実際の美術作品にどのくらい当てはめて考えられるだろうか。一部の集団の趣味が全体を覆うという構造が成り立たなくなったのが近代市民社会におけるアートであるとすれば,国家の要請がどうであれ特定の時期や地域の全体が一つの様式で埋め尽くされることなどありえない。公式芸術がなんであれ,それに従う作品ばかりが生み出されるわけではないのである。19世紀前半のドイツ美術にゴシックが登場する場合も,決して賛美一辺倒ではなかった。1834年のベルリン・アカデミー展に出品されたL.A.ブランのく教会に向かう少女>(図5Jはたしかに時代の要請にそった作品だろう(注20)。再建工事開始以前のケルン大聖堂が廃嘘として描かれ,その手前に身奇麗な少女が祈祷書を胸に抱いてひっそりとたたずんでいる。廃嘘として表現された大聖堂は分裂状態の祖国(注21)と過去の信仰(おそらくカトリック教会)を,少女は純粋で敬慶な心を表していると解釈できる。当時この絵はかなりの人気を博した(注22)。しかしこの絵を堅苦しすぎると感じた同時代人もいた。〈社交場へ向かう娘〉と題したパロディーが同時代の資料に記録されているが,それによると,手提げの中に大きなダンスシューズを入れた娘が右手に建つ教会を後にして,風紀良からぬ社交場へと一心に急ぐところが描かれていたという(注23)。どうやら押し付けられた美徳に黙って従う国民ばかりではなかった-604
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