注1923年にG.パウリは,ガウがドイツ人であったことをやや誇らしげに書いているがょうだ。ドイツのネオ・ゴシックを代表する建築家の一人G.G.ウンゲヴイッターの著作や建築図集はドイツはもちろん,イギリス,フランス,スイス,米国にも出回っていた(注24)。たとえば1850年初版の『墓碑見本図集j[図6)は,ドイツで二種類の版が出ているが,パリでも1856年に仏語版が,ロンドンでは1858年に英語版が出版されている(注25)。建築をその場所から移動させることはできなくとも建築画は持ち運べる。もちろん建築家も動くことができる。フランスにおけるネオ・ゴシック建築の代表例としてしばしばあげられるパリのサント=クロチルド聖堂(1846-57年)[図7)の設計者F.Ch.ガウはケJレン出身の建築家であり,ハンブルクのネオ・ゴシック式聖堂ニコライ・キルへ(1846-1863年)の設計コンペの勝利者となったのはイギリスのG.G.スコットで、ある。とすれば,20世紀の美術史家たちが,イギリスのゴシック,ドイツのゴシック(あるいはゴシック・リヴァイヴァル)という分類によって語ろうとしてきたものは一体何だ、ったのだろうか。そもそも中世ゴシックの時代に現在のような国境は存在しない。(注26),ガウの出身地ケルンを含むラインラントはもともとフランス文化に近い地域である。そのガウを「ドイツ」の建築家として誇ることに何の意味があるだろう。E.R.クルツイウスは『ヨーロッパ文学とラテン中世.1(1948年)において,行き過ぎた愛国主義に警告を発するゲーテの言葉を執筆の基本原理のーっとして巻頭に掲げている(注27)。ゲーテが生きた時代はドイツにおけるナショナリズムの形成期にあたり,クルツイウスがこの大著を書きすすめていた時期はナチズムのさなかにあった。クルツイウスはこの本で各国の「国民文学jを超えた「汎ヨーロッパ的文学jの存在について語ろうとした。汎ヨーロッパという概念もまた,聞い直しを必要とする多くの神話のうちの一つであろう。とはいえ,エルザス(仏アルザス)に生まれローマで没した「ドイツ」人クルツイウスのこの姿勢をわれわれは今,重く受け止めずにはいられない。(1) これについては,E. Panofsky,“Das erste Blatt aus dem 'Liblo' Giorgio Vasaris一Eine Studie uber di巴Beurteilungder Gotik in der italienischen Renaissance, mit巴m巴m-605-
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