Fhv 第2に,平面形状については,隅角が90度のものが多いが,それ以外に45度や135度縦横に数列数段にわたって組み合わせて一連の画面を構成していたことがわかる。のものなど各種が存在し,特に135度の例は,組み合わされた全体の形状が八角形をなす場合があったことを示唆する。第3に,刻銘として「十六」などといった数字がみえるように,ある程度の広い範囲を占めるものでありながら,釘穴などは認められず,組み合った形状が八角形をなす場合もあったことなどから,基本的には敷き並べて用いられる敷埠と推測される。これら1~ 3の諸点は,後述する文献史料との対応とも矛盾しない。第4に,その文様表現としては,川原寺と興福寺から半肉彫りのものが出土しており,他の出土品はいずれも線彫りである。製作時期からみると,主に半肉彫り文様の第1段階(7世紀後半から8世紀の初め頃)から,主に線彫り文様の第2段階(8世紀中頃)へという変遷の大枠を辿ることができる。3 緑紬水波文I専の文献的検討緑紬水波文埠と関連の文献史料との対応については,既に指摘されている点(注2) も多いが,改めて確認しておく。まず,興福寺については,r興福寺縁起j(r諸寺縁起集』護国寺本)の「東悌殿院J(東金堂)の項において,I漆着大床」の細註に「瑠璃地Jがみえる。緑柚水波文埠は,当時のガラスと同一成分である粕薬が施された敷埠であり,東金堂の発掘調査においてもまとまって出土しているため,瑠璃地の具体的実態とみて間違いないだろう。つまり,この緑紬水波文埠は,神亀3年(726)に聖武天皇が元正太上天皇の病気平癒を祈って建てた興福寺東金堂において,1瑠璃地」として薬師三尊を安置する須弥壇上面を飾っていたことになる。興福寺中金堂前庭出土緑紬埠は,出土状況や東金堂出土品との厚みの相違などから,創建中金堂での使用が想定される。中金堂については,r興福寺流記』にみえる「奮所安置弥勅浄土縁起」に「御瑠璃之殿」が記されている。床面の状況は明記されていないものの,弥勤浄土における瑠璃殿の一部を構成していた可能性が最も高いだろう。特に,中金堂のものが東金堂より出土数量が少なく,厚みが薄い点は,東金堂において緑粕埠が須弥壇のほぼ全体に及ぶのに対して,中金堂では須弥壇上の瑠璃殿という一部を構成したとすると説明がつきやすい。すなわち,興福寺中金堂では,養老5年(721)に橘三千代が藤原不比等一周忌の供養のために設けた弥勤浄土の瑠璃殿に用い
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