ro られたと推測されよう。次に,東大寺については,阿弥陀堂(東大寺成立以前の建立だが,その成立後は東大寺の一堂宇として存続するため,以下では一括して「東大寺阿弥陀堂」と仮称しておりにかかわる『阿弥陀悔過料資財帳』が注目される。そこには,資財の内訳の筆頭に,阿弥陀浄土変のための漆塗八角賓殿一基が掲げられ,その基壇の上階が「池磯敷瑠琉(璃カ)Jとされている。「池磯」を表現した「瑠璃jは,緑柚水波文埠とまさに適合する内容である。また,緑柚水波文I専を確認できるのは東大寺では上院地区に限られているという考古学的な知見などから,阿弥陀堂が上院地区内に立地していたとみるのが妥当である。よって,東大寺上院地区出土の緑紬水波紋埠は,天平13年(741)3月には造り終えていた阿弥陀堂の宝殿に「池磯敷瑠璃」として使用されていた可能性が高い。4 緑軸水波文埠と阿弥陀浄土次に,緑粕水波文埠が使用される意味をもう少し深めることにする。まず東大寺阿弥陀堂例から始めたい。『阿弥陀悔過料資財帳』によれば,緑柚水波文埠が使用されたとみられる「賓殿jには,彫像群により立体的に阿弥陀浄土変が造りだされていた(注3 )。つまり,この場合の緑糊水波文簿は,阿弥陀浄土の蓮池,宝池を表していたことになる。しかも,これまで十分には注意されていないが,瑠璃が敷かれていたのは基壇の上階,すなわち阿弥陀三尊が安置されていたとみられる宝殿の中心部分であるから,宝池上に阿弥陀三尊が位置するという構図になる。そこで,浄土教典との関係がまず問われねばならないだろう。東大寺阿弥陀堂浄土変の所依経典については,既に光森正士氏が言及しており,r阿弥陀悔過料資財帳』に『阿弥陀経』が数多く記載されていることから,r阿弥陀経』に基づくものと推測している(注4)。しかし,r阿弥陀経』は読諦経典として知られており,阿弥陀悔過に実際に用いる経典として多量に納められていたことなども想定すべきであるので,この阿弥陀堂浄土変の典拠の問題とは分けて考えなければならない。緑粕水波文I専の使用に着目すると,例えば『阿弥陀悔過料資財帳』にみえる『無量寿経』には,阿弥陀浄土の「瑠璃池」がみえ,緑紬と水波文という2つの特徴を持つこの埠は,それに適合する実態を示している。ただし,浄土の宝池について浄土三部経を少し細かくみれば,r阿弥陀経Jでは「七宝池」として「池底純以金沙布地」と記
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