鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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されており,むしろ金色である方がその実態化としてはふさわしい。また『無量寿経Jにしても,r瑠璃池」以外にも黄金池を筆頭に種々の池が記されており,緑紬による宝池を採用した根拠の説明としては必ずしも十分ではない。一方,やはり『阿弥陀悔過料資財帳』にもみえる『観無量寿経』においては,r瑠璃池」そのものの表現は出てこないものの,いわゆる十三観のなかで「瑠璃想」が挙げられ,七宝のなかでも「瑠璃Jに特別な位置が与えられている。中国陪代には,r観経』に基づく浄土変を建築のうえに具現した例として,青碧をもって瑠璃地を象り,阿弥陀三尊を安置していた例が知られるが,それとの類似性も強い。また,厳密には瑠璃の大地上に阿弥陀(無量寿)仏が位置するべきなのであろうが,第十三観では「一丈六像在池水上」とあることをみれば,瑠璃の池上の阿弥陀という造形が生まれうる内容だとも言えよう。このようにみてくると,緑粕水波文埠上に安置される阿弥陀三尊のあり方は,r無量寿経』や『阿弥陀経Jなどを含む可能性はあるが,r観無量寿経』を基本とする造像のー形態と判断するのが良いであろう。この点は,後述する緑粕埠以外の諸側面を加味しでも妥当と思われる。5 東大寺阿弥陀堂の浄土経変としての位置付け次に,東大寺阿弥陀堂に関して,白鳳■奈良時代において阿弥陀浄土が表現された諸例と比較してみたい。現存遺品としては,7世紀末から8世紀初め頃の伝橘夫人念持仏や法隆寺金堂6号壁画,それに法隆寺の銅板押出あるいは埠製の阿弥陀五尊像,「天平宝字七年J(763)の銘があったとされる,いわゆる当麻蔓奈羅などが挙げられる。この他に,現存はしないものの,史料から輪郭がわかるものとして,天平2年(730)に光明皇后により建立された興福寺五重塔内障の西方阿弥陀浄土変などがある。伝橘夫人念持仏や法隆寺壁画は宝池から伸びる蓮華上に阿弥陀三尊が見いだされるのに対し,押出仏や埠仏には蓮池の表現がみられず,当麻蔓茶羅は独立した三尊段を設け,その外側に宝池を描く。宝池に着目すれば,東大寺阿弥陀堂の様相は,当麻蔓茶羅とは異なり,伝橘夫人念持仏や法隆寺壁画との共通性が見いだされるだろう。また,材質に起因する側面もあるが,伝橘夫人念持仏の宝池は金色を呈していたのに対して,法隆寺壁画の宝池は緑色で表現されていたとみられ,緑粕埠を用いる阿弥陀堂例は後者により近いことになる。宝池だけの比較では偏りが大きいので,その他の要素もみておきたい。まず,阿弥-614-

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