鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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に陀堂の宝殿の構造は,本来扉がなく吹き放しの状態だ、ったとみられる伝橘夫人念持仏厨子と類縁関係が認められ,その厨子が天平19年(747)の「法隆寺伽藍縁起井流記資財帳』で「宮殿」と呼ばれていたとみられる点も両者の関連を示唆する。一方,阿弥陀堂宝殿には各所に鳥形の表現がなされたが,伝橘夫人念持仏にはそれが認められないようであるのに対して,興福寺塔には「種々鳥形十翼Jとあり,類似する。東大寺阿弥陀堂では,阿弥陀三尊以外に楽器を演奏する音声菩薩10躯が造像されている。これらは伝橘夫人念持仏では確認できないが,興福寺塔では8躯の音楽菩薩が存在しており,当麻蔓茶羅などにも認められる。阿弥陀堂では,上記の他に香炉を持つ羅漢像2躯がみられるが,興福寺塔では確認できないのに対して,伝橘夫人念持仏厨子の須弥座腰部には両側面に各々l躯の僧坐像が描かれており,不鮮明ながら少なくとも一方は両手を前に突き出している姿であるため,香炉を捧げ持っていた可能性は十分にある。さらに,阿弥陀堂では,群像のうち阿弥陀三尊が金色を呈していたが,音声菩薩や羅漢など十二菩薩が宍色と記されており,その点は興福寺塔の内容とほぼ一致する。また,その色彩の区別などから考えると,東大寺阿弥陀堂では宝殿の上階に阿弥陀三尊を安置し,その下段である宝池の外側に音声菩薩を配したと推測されるが,もしそうだとすると,形状は異質ながらも,当麻量茶羅における舞楽段のような独立空間を呈していたことになろう。この他の要素としては,東大寺阿弥陀堂に近接するとみられるこ月堂仏飼屋の発掘調査では緑粕水波文埠とともに緑粕軒平瓦が出土しており,それを阿弥陀堂で用いたことが十分に考えられるが,そこには緑色の屋根をした宝楼閣の再現が阿弥陀堂の建物自体で試みられていた可能性を指摘でき,宝楼閣などの絵画表現がされる当麻憂茶羅に近い要素と判断できる。以上のようにみてくると,東大寺阿弥陀堂の立体的浄土変は,伝橘夫人念持仏や興福寺塔内陣などのいくつかの要素を引き継いで華麗な造作がなされたものといえる。また一方で、,当麻憂茶羅にみられる典型的な観経変の部分的要素は認められつつも,むしろその前段階の様相が強い。それは,製作時期からみても整合する流れであろう。阿弥陀浄土の造形的表現としては,1段階一伝橘夫人念持仏ならびに厨子や法隆寺金堂6号壁画,2段階一東大寺阿弥陀堂,3段階一当麻量茶羅,というように,段階差を経て発展していく過程を見いだせるのではなかろうか。このような変化が辿れるとすると,注目されるのは阿弥陀浄土変を多数現在に伝えdro

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