鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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ハhuる中国・敦'崖石窟の壁画である。そこでは,盛唐代以降に当麻呈茶羅とほぼ同様の図様の観経変が盛んに描かれており,その成立以前の段階では法隆寺金堂壁画のように宝池の蓮上に坐する阿弥陀仏を描く例が確認される。例えば法隆寺壁画との近親性がよく指摘される332窟東壁の場合,宝池上に阿弥陀三尊を初めとして多くの菩薩が描かれるとともに,その宝池の手前に2人の供養僧が立っている点で東大寺例に類似するが,舞楽段や宝楼閣は成立していない。それに対して,貞観16年(642)の紀年銘が残される220号窟の南壁例では,蓮池上に坐する阿弥陀三尊などが描かれ,しかも舞楽段や宝楼閣も描き込まれている。それは,当麻憂茶羅のような典型的な観経変の前段階に位置付けられるものであり,東大寺阿弥陀堂の様相に通じるものと言える。とするならば,当麻長茶羅の成立以前には,まず法隆寺の押出仏や埠仏のような簡素な構図のものや,法隆寺金堂壁画や薬師寺講堂の繍仏などのモデルとなる図像が日本にもたらされていたが,8世紀初め頃には新たに敦煙220号窟南壁に類するような別種の浄土経変が日本に流入していた可能性も指摘できるのではないだろうか。以上のようにみてくると,東大寺阿弥陀堂例の諸要素は,それ以前の各種造形や新たな浄土経変の流入と影響などで説明付けられるだろう。その一方で初めて瑠璃,緑柚埠を阿弥陀浄土の造像に取り入れた点には別の側面も想定すべきである。これには,先述したような『観経』などの教義上の問題とともに,東大寺に先立つ段階に興福寺の中金堂や東金堂において緑粕埠の浄土の表現として使用されていたことに注目すべきであろう。6 東大寺阿弥陀堂と法華寺阿弥陀浄土院さて,東大寺阿弥陀堂の例は,緑紬水波文埠による段階設定では線彫りの文様表現である第2段階となるが,この段階には他に法華寺阿弥陀浄土院でも緑柚埠が用いられている。東大寺阿弥陀堂と法華寺阿弥陀浄土院の両者は,奈良時代を代表する2つの阿弥陀堂であり,法華寺阿弥陀浄土院においても,阿弥陀浄土の瑠璃池として緑粕水波文埠が用いられていたことになろう。東大寺例と同様の使用方法であったかは,不明とせざるをえないが,阿弥陀浄土院においても緑柚瓦が出土していることを重視すれば,東大寺阿弥陀堂を受け継ぐものと推測される。その一方で,発掘調査により明らかにされたように,池の中に仏堂が位置していたとみられ,平安時代にみられるような浄土庭園の先縦となっていることも注目される。

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